富樫政親 (とがしまさちか)
【概説】
室町時代後期の加賀国(現・石川県)の守護大名。家督争いに勝利するために浄土真宗(一向宗)の本願寺門徒の武力を利用したが、のちに勢力を拡大した門徒の弾圧へと転じた。その結果、日本史上初の国人や百姓による守護領国支配を実現させる契機となった「加賀の一向一揆」を招き、自害に追い込まれた悲劇の領主である。
家督争いと一向宗門徒との提携
室町時代中期、加賀国の守護である富樫氏は深刻な内紛を抱えていた。応仁の乱(1467〜1477年)が勃発すると、この内紛は中央の乱と連動し、富樫政親(東軍)と弟の富樫幸千代(西軍)による激しい守護職争いへと発展した。
劣勢に立たされた政親は、当時越前国の吉崎(現・福井県あわら市)を拠点に布教活動を広げ、北陸地方で急速に勢力を拡大していた本願寺第8世宗主蓮如に接近した。政親は真宗の門徒たちに協力を仰ぎ、その強大な組織力と武力を味方に引き入れることに成功する。文明6年(1474年)、政親は一向宗門徒の多大な軍事力を背景に幸千代の軍勢を破り、加賀国一国の支配権を確立した。この戦いは「文明の一揆」とも呼ばれ、宗教勢力が大名間の争いを左右する先例となった。
領国支配の動揺と一向宗への弾圧
守護としての地位を確固たるものにした政親であったが、皮肉にも自らを助けてくれた一向宗門徒の存在が、最大の脅威となって立ちはだかることになった。政親を勝利に導いた門徒たちは、守護の支配に服さず、加賀国内で独自の結束(惣)を強め、領主に対する年貢の未納や抵抗運動(一揆)を活発化させていったのである。
真宗の勢力拡大が守護領国制の存続を脅かすと判断した政親は、やがて門徒を「悪党」とみなし、厳しい弾圧を開始した。蓮如は門徒に対して一揆の終息と自重を呼びかけたが、宗教的結合を強め自治組織化していく門徒たちのエネルギーを抑えることはできず、両者の対立は決定的なものとなった。
加賀一向一揆と政親の自刃
長享元年(1487年)、政親は室町幕府の第9代将軍足利義尚による近江国守護・六角高頼の征伐(鈎の陣)に従軍した。政親は将軍への忠誠を示し、幕府の後盾を得て国内の一向宗勢力を制圧しようと試みたのである。
しかし、政親が主力を率いて加賀を留守にしている隙を突き、国内の門徒(国人、土豪、百姓ら)が一斉に蜂起した。急ぎ加賀に帰国した政親は、拠点である高尾城(現・金沢市)に籠城して抗戦した。しかし、長享2年(1488年)、一向宗門徒に加え、政親と対立していた加賀の国人衆ら約20万とも言われる大軍に包囲された。後援を得られないまま城は陥落し、政親は自害して果てた。
この富樫政親の滅亡により、加賀国はその後、信長に攻め滅ぼされるまで約100年間にわたり「百姓の持ちたる国」と呼ばれ、本願寺の指導のもとで門徒や国人たちによる共和制的な自治支配が続くという、日本中世史上きわめて特異な歴史を歩むこととなった。