盛唐期 (せいとうき)
【概説】
中国の唐王朝において、国力が最高潮に達し文化が最も成熟した黄金時代。第6代皇帝・玄宗の治世(開元の治)を中心とする8世紀前半を指し、李白や杜甫に代表される詩文や国際色豊かな美術が花開いた。この時期の先進的な政治制度や華麗な文化は、日本の奈良時代(天平文化)の形成に決定的な影響を与えた。
「開元の治」と盛唐文化の特質
唐代の詩風区分(初唐・盛唐・中唐・晩唐)に由来する「盛唐」は、政治・経済の安定を基盤とした文化的成熟期を指す。玄宗の治世の前半である開元の治(713年〜741年)において、律令体制に基づく中央集権国家は完成を迎え、経済と国際交易が飛躍的に発展した。
この安定期を背景に、文学では「詩仙」と称された李白や「詩聖」と称された杜甫、自然詩人の王維らが活躍し、漢詩の黄金時代を築いた。また、美術分野では呉道玄の絵画や、西域(シルクロード)の文化を取り入れた国際色豊かな唐三彩などが生み出された。首都の長安は、世界中から使節や商人が集まる国際都市として繁栄し、そのダイナミックで洗練された文化様式が「盛唐文化」の本質であった。
遣唐使の全盛と天平文化への影響
日本の奈良時代は、まさにこの盛唐期と完全に合致している。日本は多大なる危険を冒してまで遣唐使を頻繁に派遣し、最盛期を迎えていた唐の最高峰の制度や文化を直接吸収しようとした。多治比県守や栗田寛守、そして現地の朝廷で重用された阿倍仲麻呂や、帰国後に政界・学界で活躍した吉備真備、僧の玄昉らは、まさに盛唐の空気を肌で吸った人々であった。
彼らがもたらした最新の学問、仏教経典、美術工芸品は、聖武天皇の治世を中心とする天平文化の骨格となった。東大寺の建立や国分寺の造営といった国家仏教の推進は、唐の鎮護国家思想に強く影響されており、正倉院に納められた数々の宝物(螺鈿紫檀五絃琵琶など)には、盛唐期の長安で流行したペルシア(ササン朝)風の意匠や、極彩色豊かな唐代美術のエッセンスが色濃く残されている。このように、日本の天平文化は「盛唐文化の日本的展開」として捉えることができる。
安史の乱と日唐関係の変容
栄華を極めた盛唐期は、755年に勃発した安史の乱によって突如として終焉を迎える。玄宗の治世後半の政治の弛緩と、節度使の台頭が招いたこの大乱により、唐の律令体制は大きく動揺し、国内は長年にわたり荒廃することとなった。
この政情不安の情報は、遣唐使などを通じて日本にも速やかに伝わった。日本国内では、太師(太政大臣)として権力を握っていた藤原仲麻呂(恵美押勝)が、唐の危機に乗じて新羅への遠征計画(新羅征討計画)を企て、同時に唐風の官名改称や法制度の導入を強行するなど、緊迫した国際情勢に対応しようとした。盛唐期の終焉と唐の衰退は、日本にとっても単なる他国の出来事ではなく、律令国家としての外交姿勢や国内統治のあり方を再考させる重大な契機となったのである。