長安
【概説】
中国の唐の首都であり、シルクロードの東の起点として栄華を極めた当時世界最大級の国際都市。碁盤の目状に区画された精緻な都市計画は、日本の律令国家建設において平城京や平安京の直接的なモデルとなった。また、遣唐使を通じて日本に最先端の政治制度や文化をもたらす中心地としても機能した。
世界帝国・唐の中心と国際都市としての繁栄
長安は、もとは前漢の首都として建設された都市であるが、日本史に最も深い影響を与えたのは唐(618年〜907年)の首都としての長安である。唐代の長安は、隋の文帝が建設した大興城を基礎として拡張・整備されたものであり、最盛期には人口100万人を超える世界最大のメガロポリスであった。
シルクロードの東の起点であった長安には、西域(中央アジアや中東)からペルシャ人やソグド人などの商人、使節、宗教家が頻繁に訪れた。市内には仏教寺院のみならず、ゾロアスター教(祆教)、ネストリウス派キリスト教(景教)、イスラム教の礼拝所も建てられ、異国情緒あふれる国際色豊かな文化が花開いた。この国際的な唐の文化は、のちに日本の天平文化に多大な影響を与えることとなる。
長安の都市構造「条坊制」
長安の最大の特徴は、風水思想や儒教的な理念に基づいて設計された条坊制(じょうぼうせい)という都市計画である。都市の形状は東西約9.7km、南北約8.6kmの長方形をなし、周囲は堅固な城壁で囲まれていた。
都市の北側中央には皇帝の居所である「宮城(きゅうじょう)」と、政府機関が集まる「皇城(こうじょう)」が置かれた。そこから南へ向かって幅150メートルにも及ぶメインストリートの朱雀大路(すざくおおじ)が貫き、都市を東西(左街・右街)に二分していた。さらに、都市全体は東西南北に走る大路によって碁盤の目状に整然と区画(坊)され、商業活動は厳密に管理された「東市」と「西市」に限定されていた。この高度にシステマチックな構造は、当時の東アジア諸国にとって理想的な首都の姿と見なされた。
平城京・平安京への直接的影響
7世紀後半から8世紀にかけて、本格的な律令国家の建設を目指した日本の古代国家は、強大で先進的な唐の制度を積極的に導入しようと試みた。その象徴が、長安を模倣した都城制の導入である。最初の本格的な都城である藤原京を経て、710年に遷都された平城京、そして794年に造営された平安京は、いずれも長安の設計思想を忠実に踏襲している。
北央に天皇の住まいと官庁街である「平城宮(平安宮)」を配置し、そこから南へ朱雀大路を延ばして左京と右京に分ける構造や、碁盤の目状に区画する条坊制、官営の東市・西市の設置などは、長安の完全なスケールダウン版であった(平城京は長安の約4分の1の面積)。ただし、日本の都城には外敵の侵入を防ぐための城壁(羅城)が南端の一部を除いて築かれなかった点に、城塞都市としての性格が強い中国との違いが見られる。
遣唐使が見た長安と日唐交流
長安は、日本から派遣された遣唐使たちの最終目的地であった。阿倍仲麻呂、吉備真備、玄昉、そして平安時代初期の空海や最澄など、多くの留学生や学問僧が長安の地を踏み、最新の律令法、仏教経典、文学、建築技術を学んだ。
とくに阿倍仲麻呂は、唐の難関官僚登用試験である科挙に合格して高官となり、李白や王維といった唐を代表する文化人と長安で深い交流を持った。彼らが長安で見聞きし、日本へ持ち帰った知識や文化の品々(正倉院宝物などにみられるペルシャ風の工芸品など)は、日本の国家形成と文化の成熟に計り知れない貢献を果たしたのである。長安は単なる異国の地名にとどまらず、古代日本の国家ビジョンそのものを形作った源流であったと言える。