抽分銭 (ちゅうぶんせん)
【概説】
室町幕府が遣明船の帰国時に、持ち帰った積荷(輸入品)に対して課した税。原則として貿易利益の10分の1(1割)に相当する額を徴収した。室町時代中期以降、財政基盤の脆弱な幕府にとって重要な臨時収入源となった。
日明貿易の展開と抽分銭の成立
1401年に3代将軍足利義満によって開始された日明貿易(勘合貿易)は、朝貢貿易の形式をとりつつも、日本側にとって極めて利益率の高い経済活動であった。明からは銅銭(永楽通宝など)をはじめ、生糸、絹織物、書画、磁器などがもたらされ、日本国内で高値で売却された。
当初、遣明船の運航は幕府が直営するか、あるいは寺社や有力守護大名が中心となって行われていた。しかし、時代が下るにつれて、実際の資金調達や貿易実務は博多や堺などの豪商が担うようになり、幕府や守護、寺社はそれらの商人に「名義(勘合)」を貸し出す形式へと変化していった。この過程で、幕府が遣明船の利益から一定割合を徴収する制度として定着したのが抽分銭である。「抽分」とは本来、共同の利益から一定の割合を天引きして分配することを指す言葉であった。
幕府財政における意義と徴収の変遷
室町幕府は鎌倉幕府に比べて直轄領(御料所)が少なく、恒常的な財政基盤が脆弱であった。そのため、京都の土倉や酒屋に課した土倉役・酒屋役や、臨時の段銭・棟別銭などに依存していた。こうした状況下において、一度の往還で莫大な利益を生む遣明船からの抽分銭は、幕府にとって極めて重要な財源となった。特に将軍の代替わりや大規模な寺社造営、内裏の修復といった臨時の大事業が発生した際、この抽分銭がその費用に充てられた。
徴収の基準は、当初は輸入された現物(積荷)の10分の1を徴収する「一割税」であったが、のちには現地での買付額(明での価格)を基準としたり、一定の現金を事前に納めさせる方法へと移行した。また、税率も時代や遣明船の運営主体によって変動し、時には10分の2(2割)に引き上げられることもあった。
守護大名による請負と日明貿易の変質
1467年に勃発した応仁の乱以降、幕府の権威が衰退すると、遣明船の主導権は細川氏(堺の商人と結託)や大内氏(博多の商人と結託)などの有力守護大名へと移っていった。両者は激しい貿易主導権争いを展開し、1523年には明の寧波で武力衝突を引き起こす寧波の乱に至った。
この時期の室町幕府は、もはや自力で遣明船を派遣する余力を失っていたため、大内氏や細川氏、あるいは寺社や豪商に遣明船の経営を「請負」させ、彼らが日本に帰国した際に抽分銭を幕府に納めさせることで妥協した。これにより、幕府は名目上の貿易主催者としての権威を保ち、最低限の財源を確保し続けた。しかし、1551年に大内義隆が家臣の陶晴賢の謀反によって滅ぼされ(大寧寺の変)、1557年に大内氏が完全に滅亡すると、日明貿易そのものが途絶えることとなった。これに伴い、幕府の貴重な財源であった抽分銭もまた、その歴史的役割を終えた。