倭館

日朝貿易の際、日本から渡航した使節や商人を滞在させ、貿易や接待を行うために朝鮮側が設けた客館(施設)を何というか?
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倭館 (わかん)

15世紀初頭〜1872年

【概説】
朝鮮王朝(李氏朝鮮)が、日本の使節や商人を接待・滞在させるために設けた指定の施設および居留区。
室町時代には三浦(さんぽ)などに設置されて日朝貿易の拠点となったが、江戸時代には釜山の一港のみに限定され、対馬藩が外交と交易を独占する舞台として機能した。

倭館設置の背景と初期の日朝貿易

14世紀後半から15世紀にかけて、東アジア海域では前期倭寇が猛威を振るっていた。1392年に建国された李氏朝鮮は、倭寇の禁圧を日本の室町幕府や西国の有力守護に求めると同時に、平和的な交易を望む者に対しては通交を許可する懐柔策(交隣政策)をとった。これにより、日本から渡航する使節や商人が急増したが、彼らが無秩序に朝鮮国内を移動することは安全保障上の脅威であった。そこで朝鮮側は、寄港地を限定して彼らを特定の施設に収容し、食糧や滞在費を支給して接待・監視する体制を整えた。これが倭館の始まりである。

室町時代の三浦倭館と三浦の乱

15世紀初頭、朝鮮は慶尚道南部の富山浦(ふざんぽ:現在の釜山)、乃而浦(ないじほ:現在の鎮海)、塩浦(えんぽ:現在の蔚山)の三つの港を開港し、それぞれに倭館を設置した。これらは総称して三浦(さんぽ)と呼ばれる。三浦の倭館は単なる一時的な接待施設にとどまらず、次第に日本人が定住するようになり、彼らは「恒居倭人(こうきょわじん)」と呼ばれた。

しかし、恒居倭人の人口増加に伴い、密貿易の横行や朝鮮官吏との衝突といった問題が表面化する。朝鮮側が彼らへの統制を強化すると、それに反発した日本人たちが1510年に大規模な暴動である三浦の乱(三浦の役)を起こした。この反乱は朝鮮軍によって鎮圧され、日朝間の貿易は一時断絶したが、後に開港場を制限し、日本人の定住を厳しく制限する形で規模を縮小して再開された。

江戸時代の倭館と対馬藩の役割

16世紀末の豊臣秀吉による朝鮮出兵(文禄・慶長の役)によって日朝関係は完全に破綻したが、江戸時代に入ると、徳川家康の命を受けた対馬の宗氏の尽力により、1609年に己酉約条(きゆうやくじょう)が結ばれて国交が回復した。この際、倭館は釜山の豆毛浦(とんもぽ)の1ヶ所のみに限定して再建され、後にさらに利便性の高い草梁(ちょりゃん)へと移転された(草梁倭館)。

江戸時代の倭館は、中世とは異なり日本人の定住(女性や家族の帯同など)は固く禁じられ、対馬藩の役人や商人が男性のみで交代で駐在する、実質的な治外法権の飛び地として機能した。約10万坪にも及ぶ広大な敷地を持ち、朝鮮通信使の応接に関する実務交渉や、日本の銀と朝鮮の人参・中国産の生糸などを交換する日朝貿易の独占的拠点として極めて重要な役割を果たした。

近代外交への移行と倭館の終焉

約250年にわたり日朝関係の結節点として機能した倭館であったが、明治維新によってその歴史的役割は終焉を迎えることになる。1868年、成立直後の明治政府は対馬藩を通じて王政復古を朝鮮に持ちかけたが、従来の外交慣例(書契の書式や天皇号の使用など)と異なることを理由に朝鮮側が受け取りを拒否し、深刻な外交摩擦(書契問題)が生じた。

これを打開し、近代的な国家間外交へ移行させるため、1872年に日本政府は対馬藩から草梁倭館の管理権を接収し、外務省の役人を直接駐在させた(倭館撤収事件)。その後、1876年の日朝修好条規(江華条約)によって釜山が正式に開港されると、旧倭館は「釜山日本専管居留地」へと改編され、中世から続いた伝統的な交隣体制を象徴する倭館の歴史は幕を閉じた。

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最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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