乃而浦 (ないじほ)
【概説】
室町時代の日朝貿易において、朝鮮王朝が日本人の来航と居住を公認した「三浦(さんぽ)」の一つ。現在の韓国慶尚南道昌原市(旧・鎮海市)周辺に位置し、三浦の中で最も規模が大きく、日朝交渉の要衝となった日本人居留地である。
三浦の設置と乃而浦の位置づけ
14世紀後半から15世紀にかけて、東アジア海域では倭寇(前期倭寇)が活発に活動し、朝鮮半島の沿岸部を脅かしていた。高麗に代わって朝鮮半島を統一した朝鮮王朝(李氏朝鮮)は、倭寇の懐柔と安定的かつ統制的な交易の推進を目的に、日本人の来航港を限定する政策をとった。その過程で整備されたのが、富山浦(ふざんぽ、現・釜山)、塩浦(えんぽ、現・蔚山)、そして乃而浦(ないじほ、薺浦とも書く)からなる三浦(さんぽ)である。
乃而浦は対馬からのアクセスが良く、朝鮮の首都である漢陽(ソウル)への主要なルート上に位置していたため、三浦の中でも最も重要視された。ここに設けられた倭館(わかん)と呼ばれる居留地には、日本からの使節や商人が滞在し、活発な交易が展開された。
恒倭の増加と地域社会の変容
室町時代の15世紀を通じて日朝貿易が本格化すると、乃而浦には「恒倭(こうわ)」と呼ばれる、朝鮮に長期的に滞在・居住する日本人が急増した。最盛期には乃而浦の居住者は2,000人を超えたとされ、これは富山浦や塩浦を大きく上回る三浦最大の規模であった。
乃而浦に住む日本人たちは、交易だけでなく、周辺地域での農業や漁業、さらには朝鮮国内での密貿易などを通じて独自の経済圏を確立していった。しかし、こうした居留民の増加と不法行為の横行は、朝鮮王朝にとって安全保障や税収管理の面で深刻な問題となっていく。
三浦の乱と乃而浦の終焉
15世紀末から16世紀初頭にかけて、朝鮮王朝(成宗・中宗期)は恒倭に対する統制を強化し、特権の制限や課税、違法活動の取り締まりを断行した。生活の基盤を脅かされた乃而浦などの居留民は反発を強め、1510年、対馬の守護である宗氏の支援を得て武装蜂起した。これが三浦の乱(さんぽのらん)である。
反乱軍は乃而浦や富山浦の居留地を拠点に朝鮮の官軍と激しく戦ったが、最終的に鎮圧された。この乱を契機に朝鮮王朝は三浦の倭館を閉鎖し、日本人の居住を禁止した。その後、一時的に修好条約(臨進約条など)が結ばれて交易が再開されたものの、来航地は限定され、かつて乃而浦が誇った大規模な日本人コミュニティと活発な自由交易の時代は終焉を迎えた。