五山・十刹の制 (ござん・じっさつのせい)
【概説】
南宋の官寺制度に倣い、幕府が臨済宗などの禅宗寺院の格付けを行い、仏教界を統制した制度。室町時代の足利義満の代に最終的な確立を見せ、幕府の保護下で外交や文化の発展に多大な役割を果たした。
起源と制度の確立
五山・十刹の制は、もともと中国の南宋において、インドの仏教聖地(五山)に倣って禅宗寺院を保護・統制するために設けられた官寺制度に由来する。日本においては鎌倉時代末期、北条氏が鎌倉の建長寺や円覚寺を厚遇したことから導入が始まった。その後、建武の新政期には後醍醐天皇が大徳寺や南禅寺を五山に列するなど、時の権力者によって寺院の入れ替えが度々行われた。
室町幕府を開いた足利尊氏とその弟・直義は、臨済宗の禅僧である夢窓疎石に深く帰依し、この制度を本格的に整備していった。そして第3代将軍・足利義満の時代の1386年(至徳3年)に制度は最終的な完成を見る。義満は京都の南禅寺を別格の「五山之上」とし、その下に京都五山(天龍寺・相国寺・建仁寺・東福寺・万寿寺)と、鎌倉五山(建長寺・円覚寺・寿福寺・浄智寺・浄妙寺)を明確に定めた。さらにその下に十刹(じっさつ)、諸山(しょざん)という格付けを設け、全国の禅宗寺院をピラミッド型の階層構造に編成したのである。
僧録の設置と仏教界の統制
幕府は寺院に対し所領を保護するなどの特権を与える一方で、寺院の住職(住持)の任命権を掌握することで強力な統制を図った。義満は1379年、中国の制度に倣って禅宗の統括機関として僧録(そうろく)という役職を設置し、相国寺の春屋妙葩(しゅんおくみょうは)を初代僧録司に任命した。
この僧録を通じて、幕府は五山・十刹の住職を任命する公的な辞令(公帖)を発給し、住職の昇進ルートを完全に管理下に置いた。出世を望む禅僧は幕府の権威に従属せざるを得ず、五山派の寺院は次第に幕府の官僚機構の一部のような性格を帯びていった。一方で、こうした幕府の政治的介入を嫌い、世俗権力と距離を置いて純粋な禅の修行を重んじた大徳寺や妙心寺などの寺院は、五山・十刹の枠組みから外れて林下(りんげ)と呼ばれ、民衆の支持を集めながら独自の発展を遂げることとなる。
外交・文化面での歴史的役割
五山・十刹に属する禅僧(五山僧)たちは、宗教者としてだけでなく、幕府の政治や外交において極めて重要な役割を果たした。当時の禅僧は、中国(明)への留学経験者も多く、高度な漢文の教養を備えた最高レベルの知識人であった。そのため幕府は、外交文書の起草や解読、さらには日明貿易(勘合貿易)における使節の正使・副使として彼らを重用したのである。
また、五山僧は中国から朱子学や漢詩文、水墨画、さらには印刷技術など、最新の学問や文化を日本にもたらし、それらを研究・普及させた。彼らが著した漢詩や日記などの文学作品は五山文学と呼ばれ、彼らが出版した書物は五山版として広く流通した。このように、五山・十刹の制は単なる宗教統制の枠組みにとどまらず、北山文化や東山文化に代表される室町時代の禅宗文化の形成において、不可欠な推進力となったのである。