東福寺 (とうふくじ)
【概説】
京都五山の第四位に数えられる、臨済宗東福寺派の大本山。鎌倉時代に摂政を務めた九条道家が発願し、宋で学んだ高僧・円爾(えんに)を開山として創建された。中世を通じて室町幕府から厚い保護を受け、五山文学や禅宗美術など広範な文化の発信地として重要な役割を果たした。
九条道家による創建と開山・円爾
東福寺の創建は、鎌倉時代の1236年(嘉禎2年)、摂関家の有力者であった九条道家が、九条家の氏寺として発願したことに始まる。道家は奈良の東大寺の「東」と、興福寺の「福」の文字をそれぞれ合わせ、これら大寺院に匹敵する大伽藍を京都に建立することを目指した。この壮大な計画の初代住持(開山)として招かれたのが、南宋に渡って無準師範(ぶじゅんしばん)の法を継いで帰国した円爾(聖一国師)であった。円爾は、宋朝風の純粋な禅だけでなく、当時の京都の貴族層に受け入れられやすかった天台・真言の密教をも兼ね備えた「兼修禅」を展開し、東福寺を鎌倉・京都における一大禅道場へと発展させた。
京都五山への列せられと幕府の庇護
東福寺はその後、数度の火災に遭うものの、その都度、朝廷や幕府の支援によって再建された。室町時代に入ると、足利尊氏や足利義満ら歴代の室町幕府将軍から深く帰依されるようになる。特に将軍主導による禅宗寺院の統制策が進む中、1386年(至徳3年)に足利義満が定めた格付けにおいて、天龍寺、相国寺、建仁寺に次ぐ京都五山第四位に位置づけられた。これにより、東福寺は国家の保護を受ける公的な寺院(官寺)となり、政治・外交・文化の面で幕府を支える重要な役割を担うこととなった。
東福寺が育んだ禅宗文化と画僧・明兆
東福寺は、中世の日本における学問・芸術の拠点でもあった。特に禅僧たちが漢詩文を創作し、宋元の学問を研究した五山文学の分野において、多くの優れた僧侶を輩出した。美術面においては、室町初期に活躍した画僧の明兆(みょうちょう)(兆殿司)の存在が際立っている。明兆は東福寺の殿司(仏殿の管理役)を務めながら、宋元画の技法を取り入れた独自の仏画や肖像画(頂相)を多数描き、その後の日本水墨画の発展に決定的な影響を与えた。彼が描いた東福寺の「大涅槃図」や「五百羅漢図」は、同寺の豊かな美術的土壌を象徴する傑作として今に伝えられている。