明兆 (みんちょう)
【概説】
南北朝時代から室町時代初期にかけて活躍した臨済宗東福寺の画僧。東福寺の仏殿を管理する役職「殿司(でんす)」を務めたことから兆殿司(ちょうてんす)の通称でも知られる。伝統的な仏画に中国の宋元画の表現を取り入れ、後の室町水墨画の先駆者となった画壇の巨匠である。
「兆殿司」としての生涯と禅宗文化の隆盛
明兆は淡路国(現・兵庫県)に生まれ、京都の東福寺に入って臨済宗の画僧となった。東福寺における仏殿の管理役である「殿司」を長く務めたため、世に「兆殿司」と通称された。彼が活躍した14世紀後半から15世紀前半にかけての時期は、室町幕府の庇護のもとで五山文化が最盛期を迎えた時代である。明兆の優れた画技は、時の権力者である4代将軍・足利義持らにも高く評価された。しかし明兆自身は名利を好まず、ひたすら画僧としての本分を全うしたとされる。義持が彼を登用しようとしたり褒美を与えようとしたりした際、それを辞退したという逸話は、当時の禅僧のストイックな精神性を現代に伝えている。
伝統的仏画の革新と水墨画への橋渡し
明兆の美術史における最大の功績は、中国の宋代・元代に発達した新しい絵画表現(宋元画)をいち早く受容し、それまでの生硬な日本の仏画に写実性と躍動感をもたらした点にある。その代表作が、東福寺に伝わる『五百羅漢図』である。本作は羅漢(釈迦の弟子)たちの修行や奇跡の姿を極彩色で描いた大作だが、人物の衣服の表現などには水墨画特有の肥痩(太さの変化)のある力強い線画が導入されており、伝統的な仏画にはない豊かな立体感を生み出している。さらに明兆は、水墨のみによる禅独特の題材を描いた『寒山拾得図』なども手がけ、彩色仏画から本格的な水墨画へと移行する過渡期の道筋をつけた。明兆の挑戦は、後に将軍家の同朋衆(絵の専門職)として活躍する如拙(じょせつ)や周文(しゅうぶん)らへ受け継がれ、室町水墨画の黄金期を切り開く礎となった。