工藤平助

ロシアの南下を警告するとともに、蝦夷地の開発と対露貿易の必要性を説いた『赤蝦夷風説考』の著者は誰か?
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重要度
★★

【参考リンク】
工藤平助(Wikipedia)

工藤平助 (くどうへいすけ)

1734〜1800

【概説】
江戸時代中期の仙台藩医・経世家。ロシアの南下政策に警鐘を鳴らし、対露交易と蝦夷地開発の必要性を説いた書物『赤蝦夷風説考』を著した人物。その先駆的な対外論は、時の老中である田沼意次の政治に強い影響を与え、幕府による蝦夷地調査を促す契機となった。

『赤蝦夷風説考』の執筆とロシアの南下警告

工藤平助は紀伊藩(または江戸)の医師の家に生まれ、後に仙台藩医・工藤家を継いだ。医業の傍らで蘭学や地理学、歴史に深く傾倒し、当時江戸で活発化していた蘭学者らのネットワークに参加した。長崎のオランダ通詞や密貿易の帰国者などから海外情勢、とりわけ北方のロシア(当時は「赤蝦夷」と呼ばれた)の動向に関する情報を収集した平助は、天明3(1783)年に『赤蝦夷風説考』を著した。

同書において平助は、ロシアが千島列島を南下して日本近海に接近している状況を克明に描き、国防上の脅威として警告を発した。しかし、彼の主眼は単なる排除(排外主義)ではなく、ロシアとの通商の可能性を見出すことにあった。

田沼意次への提言と蝦夷地調査の開始

平助は国防の強化と同時に、放置されていた蝦夷地(現在の北海道や樺太など)を開発し、金銀などの鉱山開発やロシアとの平和的な交易(貿易)を行うべきだと提言した。この現実的かつ重商主義的な提案は、幕府の財政再建と経済活性化を進めていた老中・田沼意次の関心を惹きつけることとなった。

田沼は平助を召し抱えることはしなかったものの、彼の意見を全面的に採用し、天明5(1785)年に最上徳内らを含む大規模な調査団を蝦夷地へ派遣した。これにより、幕府による本格的な北方探検と蝦夷地直轄化への動きがスタートしたのである。平助の献策は、鎖国体制下にあって幕府が初めて主体的に外洋や北方領土へ目を向ける直接の引き金となった。

田沼失脚による挫折と後世への影響

しかし、天明6(1786)年に将軍・徳川家治が死去すると、後ろ盾であった田沼意次は失脚し、蝦夷地開発計画は一転して中止となってしまった。続く寛政の改革を主導した松平定信は、鎖国祖法を重視したため、平助の唱えた「積極的な対露貿易による国力の増強」という先進的な政策がすぐに実現することはなかった。

それでも、平助が著した『赤蝦夷風説考』は写本を通じて多くの知識人に読まれ、同郷である林子平の『海国兵談』や、のちの幕末期における北方防備論・開国論に決定的な影響を与えることとなった。日本の対外認識を「内向き」から「世界」へと広げた、日本思想史上において重要な先駆者である。

赤蝦夷風説考―北海道開拓秘史 (1979年) (教育社新書―原本現代訳〈101〉)

北方の未開の地へ眼差しを向け、先駆的な視点で当時の蝦夷情勢を鋭く分析した、歴史の真実を読み解く貴重な文献。

田沼意次の時代 (講談社学術文庫 2893)

失脚した改革者としての汚名を脱ぎ去り、商業資本を活用して理想の社会を築こうとした田沼政治の真価を問う一冊。

最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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