封建制度
【概説】
土地を媒介として、主君と従者が「御恩と奉公」の主従関係を結ぶ社会制度。鎌倉幕府の成立に伴い、源頼朝と東国武士団との間で本格的に形成され、以後約700年にわたる武家支配の根幹をなした。
武家政権の基盤となった主従関係の成立
平安時代後期、地方の荘園や公領において開発領主らが武士化し、自らの土地(所領)を守るために血縁や地縁を基盤とした武士団という連合体を形成していった。治承・寿永の乱(源平合戦)の過程で、源頼朝は平氏を打倒するため、東国武士たちに対して彼らの所領支配を保障(本領安堵)し、あるいは新たな領地を与えた(新恩給与)。このように主君が従者に対して土地という物理的な利益を与えることを「御恩」と呼ぶ。従者(御家人)はこれに報いるため、主君のために軍役や公事などの「奉公」の義務を負った。このように、土地の給与を媒介として成り立つ主従関係を基盤とする政治・社会体制を封建制度と呼ぶ。
「御恩と奉公」による双務的契約関係
日本の初期封建制度の最大の特徴は、主君と従者の関係が双務的(互恵的)な契約関係に基づいていた点である。主君は従者の生活基盤である土地を保障する明確な責任を負い、従者はその恩義に対して自らの命を懸けて戦った。戦時に「いざ鎌倉」と馳せ参じる軍役や、平時の京都大番役・鎌倉番役などが奉公の代表例である。この関係は決して主君側の一方的な絶対権力ではなく、もし主君が十分な「御恩」を与えられなければ、従者は主君を見限ることもあった。実際、鎌倉幕府の滅亡の最大の要因は、元寇(蒙古襲来)において奮戦した御家人たちに対して、幕府が新たな土地を獲得できなかったために十分な恩賞(御恩)を与えられず、主従間の信頼関係が破綻したことにある。
西欧中世のフューダリズムとの比較
世界史的視点において、日本の封建制度は西欧中世のフューダリズム(封建制)としばしば比較される。西欧のフューダリズムも、国王や諸侯が騎士に対して封土(土地)を与え、代わりに軍役などの忠誠を誓わせるという点では日本の制度と極めて類似している。しかし、西欧では複数の主君と重層的な契約を結ぶことが一般的であったのに対し、日本の場合は「忠臣は二君に仕えず」という言葉に象徴されるように、一人の主君に対する一元的な忠誠が次第に重視されるようになっていった。とはいえ、鎌倉時代の初期においては、日本の主従関係も個人的かつ実利的な契約の要素が強く、両者は歴史の発展段階において多くの共通点を持っていたと評価されている。
中世から近世への変質と幕藩体制
鎌倉幕府の下で確立した封建制度は、室町時代から戦国時代にかけて大きな変質を遂げた。守護大名や戦国大名は、家臣に対して土地そのものを直接与えるだけでなく、米や銭による知行(給与)を行うようになり、家臣団を城下町に集住させて直接的な統制を強めていった。江戸時代に入ると、徳川将軍家を頂点とする幕藩体制が確立する。この時代の封建制度(近世封建制)は、土地を媒介とする個人的な契約関係から、厳格な身分制度(士農工商)や、儒教の朱子学に基づく「忠」の道徳によって強く束縛される絶対的な主従関係へと変化した。
封建制度の解体と歴史的意義
約700年にわたって日本社会の基盤であった封建制度は、1867年の大政奉還および王政復古の大号令による江戸幕府の滅亡を経て、1871年(明治4年)の廃藩置県によって制度的に完全に解体された。武士階級は特権を失い、土地は近代的な国家機構の下に組み込まれた。しかし、長期にわたる封建社会の中で培われた「恩」や「義理」「滅私奉公」といった倫理観や、強固な集団の組織論は、近代以降の日本の官僚制や企業社会などの精神的基盤として、形を変えて深く影響を与え続けることとなった。