御恩
【概説】
封建制度において、将軍が御家人に対して所領の支配権を保障したり、新たな土地を与えたりすること。鎌倉幕府の根幹をなす主従関係「御恩と奉公」の一翼を担う最重要の概念である。
鎌倉幕府を支えた「御恩と奉公」
鎌倉幕府の政治体制の根幹は、将軍(鎌倉殿)と武士(御家人)との間に結ばれた私的な主従関係である。この関係は、土地を媒介とした双務的な契約関係によって成り立っており、将軍から御家人に与えられる恩恵を御恩、御家人が将軍に対して果たす京都大番役や鎌倉番役、軍役などの義務を奉公と呼んだ。西洋の中世社会で見られたレーン制(封建制)と類似する構造であるが、日本の場合は「土地(所領)」という具体的な財産権の保障が極めて強く意識されていた点に特徴がある。
御恩の具体的内容「本領安堵」と「新恩給与」
将軍が御家人に与える御恩には、大きく分けて二つの形態が存在した。一つは本領安堵(ほんりょうあんど)である。これは、武士が先祖伝来の開発を通じて実効支配していた土地(本領)の領有権を、将軍が地頭職に任命するという形で公的に承認し、保障する制度である。律令制が崩壊に向かい、土地の権利関係が極めて不安定化していた中世において、強大な武力と権威を持つ鎌倉殿から所領を安堵されることは、武士たちにとって最も切実な願いであった。
もう一つは、新恩給与(しんおんきゅうよ)である。これは、戦功を上げた御家人に対して、敵から没収した土地の地頭職などを新たに与えることを指す。代表的なものとして、源平の争乱において没収された平家一門の所領(平家没官領)や、1221年の承久の乱で敗れた後鳥羽上皇方の貴族・武士から没収された約3000ヶ所にも及ぶ膨大な所領が、東国武士を中心とする御家人たちに恩賞として分け与えられた例が挙げられる。
中世社会における歴史的意義
御恩という概念が制度として確立したことは、日本の国家体制における重大な転換点であった。古代の律令国家では、土地と人民は天皇(国家)のものであり(公地公民)、官僚としての地位や給与が公的に支給される仕組みであった。しかし、鎌倉幕府においては、源頼朝という一介の武家の棟梁が、実力で獲得した軍事警察権や土地支配権を背景に、配下の武士たちへ個人的に「御恩」を与え、その見返りとして忠誠を誓わせた。すなわち、国家による公的な支配構造から、土地を媒介とした私的で実力主義的な主従関係へと社会の基本原理が大きく変容したのである。
御恩の限界と鎌倉幕府の滅亡
強固に見えた「御恩と奉公」の関係も、その基盤が「土地の給与」に依存していたがゆえに、時代が下るにつれて決定的な矛盾を露呈することになる。その最大の契機が、13世紀後半に発生した元寇(文永の役・弘安の役)であった。御家人たちは異国からの防衛という重い「奉公」を果たしたものの、防衛戦であったために新たに奪える土地が存在せず、幕府は十分な「新恩給与(御恩)」を行うことができなかった。
十分な恩賞を得られず、戦費の負担や分割相続による所領の細分化によって窮乏した御家人たちは、次第に幕府への不満を募らせていった。幕府は永仁の徳政令などを発布して事態の収拾を図ったものの、根本的な解決には至らなかった。結果として、御恩という見返りが滞ったことによって奉公の義務感も失われ、主従関係の根幹であったシステムは瓦解し、これが1333年の鎌倉幕府滅亡の最大の要因となったのである。