阿波 (あわ)
【概説】
四国東部に位置する令制国。鎌倉時代の承久の乱後、倒幕計画に関与しなかったものの自ら配流を望んだ土御門上皇が、土佐国から遷され、1231年に崩御するまで隠棲した地として知られる。
承久の乱と土御門上皇の「自発的配流」
承久3年(1221年)、後鳥羽上皇が鎌倉幕府に対して兵を挙げた承久の乱は、幕府側の圧倒的な勝利に終わり、朝廷と幕府の関係性を根底から変える契機となった。乱の後、戦後処理として首謀者である後鳥羽上皇は隠岐島へ、順徳上皇は佐渡島へと配流された。
しかし、後鳥羽の第一皇子であり、かつて土御門天皇として在位していた土御門上皇は、この倒幕計画に反対していたため、幕府の処罰対象からは外れていた。しかし、父や弟が過酷な流刑に処される中で、自分だけが都で平穏に暮らすことを潔しとせず、上皇は幕府に対して自ら配流を申し出た。幕府はこの申し出を受け入れ、当初は土佐国へと遷すこととした。
土佐から阿波国への遷幸とその政治的背景
土佐国へと赴いた土御門上皇であったが、土佐は都から極めて遠隔であり、当時の生活環境は非常に厳しかった。この状況を憂慮した鎌倉幕府の執権・北条義時や、のちに3代執権となる北条泰時らは、乱に関与していない土御門上皇を不憫に思い、朝廷との極端な関係悪化を避けるための宥和政策の一環として、1223年(貞応2年)に上皇をより都に近い阿波国(現在の徳島県)へと遷すことを決定した。
阿波国に遷った上皇は、守護の小笠原氏らの保護のもと、丁重に処遇された。現在の鳴門市大麻町付近に仮の御所(阿波宮)が造営され、上皇はそこで念仏を唱え、和歌を詠みながら静かな生活を送った。この地で上皇が詠んだ歌は、のちの勅撰和歌集にも数多く残されている。そして寛喜3年(1231年)、上皇は阿波の地で37歳にして崩御した。
中世皇統の源流としての阿波の歴史的意義
土御門上皇が阿波国でその生涯を閉じたことは、一見すると不遇な皇族の終焉のように見えるが、その後の日本史、特に天皇家(皇統)の歴史において極めて重大な意義を持つこととなった。
上皇の崩御から11年後の1242年、四条天皇が後嗣を定めないまま急死すると、次代の天皇を巡って幕府と朝廷の間で調整が行われた。その際、時の執権・北条泰時は、承久の乱に協力的でなかった土御門上皇の血統を重視し、阿波国で育った上皇の皇子である邦仁王を後嵯峨天皇として即位させた。この後嵯峨天皇から、のちに南北朝時代の端緒となる持明院統(のちの北朝)と大覚寺統(のちの南朝)の両統が分立していくことになる。つまり、中世以降のすべての天皇の血統は、阿波国に配流された土御門上皇の系譜に連なっており、阿波は皇統復活の礎となった象徴的な地なのである。