加徴米

新補率法において、地頭が荘園内のすべての田畑から「1段につき5升」の割合で追加徴収することを認められた得分を何というか?
カテゴリ:
重要度
★★

【参考リンク】
加徴米(Wikipedia)

加徴米 (かちょうまい)

1221年〜

【概説】
鎌倉幕府が承久の乱後に制定した「新補率法」に基づき、新補地頭に徴収が認められた付加税。田畑1段につき5升の割合で兵粮米として徴収され、地頭の重要な経済的基盤となった。

承久の乱と新補率法の成立

1221年(承久3年)に勃発した承久の乱は、鎌倉幕府が朝廷の権力を圧倒し、全国的な支配権を確立する決定的な契機となった。幕府は乱の勝利に伴い、後鳥羽上皇方に味方した貴族や武士から約3000箇所に及ぶ膨大な所領を没収し、そこに新たな地頭を配置した。これを新補地頭(しんぽじとう)と呼ぶ。

それ以前から存在した本補地頭は、現地の前身的な権利関係を引き継いでいたため、その得分(収益)や権限は個別的で多様であった。しかし、新補地頭の大量配置に際して幕府は、個別の交渉を避けて一律の基準で地頭の権利を保障する必要が生じた。そこで1223年(貞応2年)頃に制定されたのが新補率法(しんぽりっぽう)であり、その中で地頭の重要な経済的特権として明記されたのが「加徴米」である。

加徴米の具体的規定とその経済的意義

新補率法において、新補地頭の得分は一律に規定された。まず、地頭が直接耕作して収益をすべて得ることができる土地(手作地、または給田・給畑)を、田畑11段(町)につき1段の割合で与えること。そして、それ以外の一般の田畑から1段につき5升の割合で「加徴米」を徴収する権利を認めること、などが定められた。

加徴米はもともと、軍事費や食糧を賄うための「兵粮米」という名目で公認されたものであったが、実質的には地頭の私的な得分(収益)となった。これにより地頭は、凶作などの例外を除き、安定的かつ強力な経済的基盤を獲得することに成功した。これは、東国武士を出自とする地頭たちが、西日本をはじめとする日本全国の荘園・公領へ経済的に深く根を下ろすための足がかりとなった。

荘園領主との紛争と在地支配の深化

加徴米の導入は、従来の荘園・公領における支配秩序に大きな変化をもたらした。本来の領主(公家や大寺社などの荘園領主)へ納める年貢に加え、さらに地頭への加徴米が上乗せされる形となったため、現地の農民にとっては事実上の重税となり、負担が増大した。

また、荘園領主にとっても、自らの支配領域において地頭が独自の徴税権を行使することは、領主権の侵害や取り分の減少につながるため、到底受け入れがたいものであった。そのため、加徴米の徴収や管理をめぐり、地頭と荘園領主の間で激しい裁判闘争(相論)が頻発することとなった。この対立は、やがて地頭が荘園全体の管理を請け負う地頭請(じとううけ)や、土地を領主と地頭で折半する下地中分(したじちゅうぶん)へと発展していく契機となり、武士による在地支配がより一層深化する原因となった。

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最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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Q. 承久の乱後に新たに任命された地頭と区別するため、それ以前から荘園などに置かれていた地頭を何というか?