山野河海 (さんやかかい)
【概説】
鎌倉時代の承久の乱後に制定された新補率法において、荘園領主と地頭の間で収益を折半することと定められた、田畑以外の自然空間。山林、原野、河川、海辺などを指し、薪炭や草木、水産物などの多様な自然資源をもたらす経済的要地である。
中世における山野河海の経済的価値
中世の日本社会において、山野河海は単なる未開の自然空間ではなく、人々の生活や生産活動に直結する極めて重要な資源供給地であった。山や野からは農業用肥料となる刈敷(かりしき)や草木、住居や道具の資材となる木材、日々の燃料となる薪炭、さらには狩猟による獲物が得られた。また、河川や海からは塩や魚介類、堆積物などがもたらされ、これらは生存に不可欠なだけでなく、交易品としても高い価値を有していた。
このように、農耕地(田畑)以外から得られる多種多様な富は「山野河海所産」と呼ばれ、その支配権や収益の帰属をめぐり、古くから荘園領主(本所・領家)、現地の開発領主、そしてそれらを利用して生計を立てる在地民(山野河海の民)の間で、複雑な権利関係や相論(紛争)が絶えず展開されていた。
承久の乱と新補率法による「中分」規定
1221年、後鳥羽上皇が鎌倉幕府の打倒を目指して挙兵した承久の乱は、中世の土地支配体系に劇的な変化をもたらした。勝利した幕府は、朝廷方に与した貴族や武士の所領(約3000箇所)を没収し、その跡地に功績のあった御家人を「新補地頭」として大量に補任した。この新補地頭の経済的権利を保障するために制定された法基準が、新補率法(しんぽりっぽう)である。
新補率法では、地頭の得分(収入)として、田地11町ごとに1町の免田(地頭免田)を認めること、段別5升の加徴米を徴収することなどに並び、「山野河海の所産は領家と地頭で折半する(中分する)」ことが明文化された。これにより、それまで荘園領主が独占していた、あるいは現地の慣行に委ねられていた山野河海の経済的権益に対し、武家権力を背景とした地頭が公然と介入し、その半分を領有する法的根拠が与えられることとなった。
領有をめぐる競合と下地中分への展開
新補率法による山野河海の折半規定は、各地の荘園において領主と地頭の武力衝突を伴う対立を激化させる要因となった。農耕地と異なり、山林や河川は明確な境界を引くことが困難であり、どこまでが共同利用地で、何が課税対象の資源であるかをめぐって両者の主張が激しく対立したためである。
地頭は、山野河海の管理権(検断権や山野の入り合いへの介入)を盾にして自らの支配権を強化し、在地民に対する直接的な支配力を強めていった。この領主と地頭の果てしない対立を解決するため、のちに荘園の土地そのものを物理的に二分して互いの支配権を完全に独立させる下地中分(したじちゅうぶん)が各地で行われるようになる。山野河海をめぐる相論は、貴族的な荘園支配体制の解体と、武士による一円知行(領主化)を推し進める大きな契機となったのである。