皇族将軍(親王将軍・宮将軍)

摂家将軍の藤原頼嗣が追放された後、京都の皇室から迎えられ、以後の鎌倉幕府において形式的なトップとして置かれた将軍を何というか?
カテゴリ:
重要度
★★

【参考リンク】
征夷大将軍(Wikipedia)

皇族将軍(親王将軍・宮将軍) (こうぞくしょうぐん(しんのうしょうぐん・みやしょうぐん)

1252年〜1333年

【概説】
鎌倉幕府において、第6代宗尊親王から第9代守邦親王まで、天皇家(皇室)から迎えられた将軍の総称。政治的実権を持たず、北条氏による執権政治(得宗専制)の正当性を担保するための「権威」として擁立された傀儡将軍。

摂家将軍の排斥と皇族将軍の誕生

源頼朝の直系である源氏将軍が3代実朝の暗殺によって断絶した後、鎌倉幕府は摂関家から藤原頼経・頼嗣を「摂家将軍(藤原将軍)」として迎えていた。しかし、成長した摂家将軍が幕府内の反北条勢力と結びつき、実権を握る北条氏(得宗家)を脅かす存在となった。これに対し、5代執権北条時頼は1252年、第5代将軍藤原頼嗣を廃して京都へ送還した。

時頼は、これ以上の政治的野心を持つ将軍の台頭を防ぎつつ、幕府の権威をより強固なものにするため、皇室からの将軍擁立を画策した。後嵯峨上皇との協調関係のもと、上皇の第一皇子である宗尊(むねたか)親王を第6代将軍として迎えることに成功した。これが皇族将軍(親王将軍、または宮将軍とも呼ばれる)の始まりである。

得宗専制体制における「傀儡」としての存在

宗尊親王以降、唯康(これやす)親王久明(ひさあき)親王、そして最後の守邦(もりくに)親王へと計4代にわたって皇族将軍が続いた。彼らはみな幼少の身で鎌倉に迎えられ、名目上の主君として平穏な日々を過ごしたが、政治的実権は一切与えられなかった。実際の政務は執権や連署、そして北条得宗家の私的会議である「寄合」で決定されていた。

皇族将軍たちは、成人して政治的な自立心や独自の権力基盤を持ち始めると、北条氏によって謀叛の嫌疑などをかけられ、強制的に将軍職を解かれて京都へ送り返された。例えば、初代の宗尊親王は1266年に謀叛の風聞を理由に廃位され、第7代の唯康親王は、幕府を二分した「霜月騒動」ののち、北条貞時によって京へ送還されている。このように、将軍の交代は完全に北条氏の都合によってコントロールされていた。

幕府の「寄合」政治の完成と御恩・奉公の変質

皇族将軍の擁立は、鎌倉幕府を形式的に「朝廷公認の東国政権」として盤石なものにした。天皇家という日本最高の権威を鎌倉に留め置くことで、御家人たちの忠誠心を維持する狙いがあった。これによって北条氏は、自らが「将軍の補佐役(執権)」であるという大義名分を掲げつつ、実質的な独裁体制である得宗専制体制を確立・完成させることができた。

しかし、これは同時に、幕府の根本原則であった「将軍と御家人との個人的な主従関係(御恩と奉公)」を形骸化させることになった。御家人たちは実権のない皇族将軍ではなく、実質的な支配者である北条氏(得宗家)やその被官である「御内人」に屈従せざるを得なくなり、これが御家人たちの間に強い不満を蓄積させた。結果として、元寇後の社会不安と相まって北条氏への反発は頂点に達し、1333年、新田義貞らの鎌倉攻略により幕府は滅亡、最後の将軍であった守邦親王も辞任して出家することとなった。

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最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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