空也 (くうや)
【概説】
10世紀半ばの平安時代中期、京都の市中で庶民に念仏を勧め、「市聖(いちのひじり)」と呼ばれた僧。国家や貴族のためのものであった仏教を民衆へと開放し、日本における浄土教普及の先駆的役割を果たした。
出自と諸国遍歴の道程
空也の出自には諸説あり、醍醐天皇の落胤とする皇室出身説も存在するが、確かなことは分かっていない。若い頃から尾張国分寺で出家したとされるが、国家の許可を得た正規の官僧ではなく、自ら仏道に入った私度僧(しどそう)として諸国を遍歴した。名山での山林修行を重ねる一方で、各地で道路の修築や橋の架設、井戸の掘削といった作善(さぜん・社会公共事業)を行いながら、人々に仏の教えを説いて回った。のちに比叡山で受戒して「光勝(こうしょう)」という諱(いみな)を与えられたものの、生涯にわたって自らを「空也」と称し続けた。
「市聖」と呼ばれた京都での活動
10世紀半ばの日本は、承平・天慶の乱(平将門・藤原純友の乱)などの内乱や、度重なる自然災害、疫病の流行により、社会不安が極度に高まっていた時代であった。仏教界では、釈迦の入滅から年月が経ち正しい教えが廃れるという末法思想が徐々に現実味を帯びて広がりつつあった。こうした中、空也は平安京に定住し、市中を歩き回りながら鉦(かね)を叩き、「南無阿弥陀仏」と念仏を唱和して極楽往生を説いた。当時の仏教は主に鎮護国家を目的とする貴族の専有物であったが、空也は身分の貴賤を問わず街頭で教えを説いたため、都の人々から「市聖(いちのひじり)」や「阿弥陀聖」と敬称され、熱狂的な支持を集めた。
疫病救済と西光寺の創建
空也の宗教活動は、単に念仏を唱えることにとどまらず、実践的な利他行(社会救済)と密接に結びついていた。天暦5年(951年)に京都で疫病が猛威を振るった際、空也は自ら十一面観音像を彫り、それを台車に載せて市中を引き歩きながら病人に梅干しと結び昆布を入れた茶(現在の皇服茶の起源)を振る舞い、念仏を唱えて疫病退散を祈願した。その後、活動の拠点として京都の東山に西光寺を創建した。この寺は空也の死後、中興の祖である中信によって六波羅蜜寺と改称され、現在に至るまで空也の信仰を伝えている。
浄土教発展における歴史的意義と後世への影響
空也は、日本の仏教史において浄土教(念仏信仰)を庶民レベルにまで引き下ろした最初期の人物として極めて重要な位置を占める。同時代に比叡山の僧である源信が『往生要集』を著して理論や教義の面から浄土教を大成したのに対し、空也は実践的・行動的な側面から民衆教化の基盤を築いた。彼が始めた口称念仏や鉢叩きの風習は、後に鎌倉時代に登場する法然や親鸞、そして一遍が創始した時宗(踊念仏)などの一大念仏運動へと受け継がれていく源流となった。六波羅蜜寺に所蔵されている、口から六体の阿弥陀仏が現れる「空也上人立像」(鎌倉時代・運慶の四男である康勝作)は、彼が「南無阿弥陀仏」の六字の念仏を唱える姿を象徴的に表現した傑作であり、空也の信仰が後世の人々にどれほど深く敬慕されていたかを雄弁に物語っている。