長崎高資 (ながさきたかすけ)
?〜1333
【概説】
鎌倉時代末期の得宗被官であり、幕府の実権を握った内管領。第14代執権・北条高時のもとで専横を極め、その腐敗政治によって鎌倉幕府滅亡の引き金を引いた人物である。
得宗専制の極限と長崎氏の権力掌握
鎌倉時代後期、北条氏の本家である「得宗」の権力が肥大化するなか、得宗の私的な臣下である御内人(みうちびと)が幕政の実権を掌握するようになった。その最高幹部である内管領(ないかんれい)の地位に就いたのが長崎高資である。高資は父の長崎円喜とともに、若年で病弱であった得宗・北条高時を擁立し、寄合(よりあい)などの幕府最高意思決定機関を主導した。これにより、従来の執権や連署、さらには有力御家人らを差し置いて、内管領が幕府の事実上の最高権力者として君臨する「得宗専制」の極限期が形成されることとなった。
賄賂政治の横行と幕府の機能不全
長崎高資の政治は、金銭や利権にまみれた賄賂政治として悪名高い。その象徴的な事件が、陸奥国津軽地方の豪族・安東(安藤)氏の家督争いに端を発した安藤氏の乱である。高資は紛争当事者の双方から賄賂を受け取り、矛盾する判決を下したため紛争は長期化し、幕府の軍事的・政治的権威は著しく失墜した。さらに、1326年の嘉暦の騒動では執権の後継人事を巡って暗躍し、北条一門内の対立を深刻化させた。こうした高資の専横と幕政の腐敗は、各地の武士層に「もはや幕府は頼りにならない」という不信感を植え付け、後醍醐天皇による倒幕運動(元弘の乱)を誘発する一因となった。1333年、新田義貞の鎌倉侵攻によって幕府が陥落すると、高資は北条高時ら一族とともに東勝寺で自刃した。