二毛作

鎌倉時代、畿内や西日本を中心に普及した、同じ耕地で夏に米、冬に麦を栽培する土地の集約的な利用法を何というか?
カテゴリ:
重要度
★★★

【参考リンク】
二毛作(Wikipedia)

二毛作

【概説】
鎌倉時代に畿内や西日本を中心に広まった、同じ田畑で1年のうちに米と麦など2種類の作物を栽培する農業技術。農業生産力の大幅な向上をもたらし、余剰生産物の発生を通じて中世における貨幣経済の進展や農民の自立を促す重要な契機となった。

鎌倉期における農業技術の発展

鎌倉時代は、日本の農業史において生産力が飛躍的に向上した画期的な時代であった。それまでの粗放な農業から脱却し、牛馬を農作業に利用する牛馬耕や、土をより深く耕すことができる鉄製農具(犂や鍬など)が広く普及し始めた。こうした一連の農業技術の進歩を背景に、畿内から西日本を中心とする地域で普及したのが二毛作である。通常、夏に表作として水稲を栽培し、秋の稲刈り後に裏作として麦を栽培するというサイクルで行われた。

成立を支えた条件と農民の工夫

二毛作は同一の耕地から年二回の収穫を得る画期的な農法であるが、同時に地力を激しく消耗させるという大きな課題を伴っていた。これを克服するため、農民たちは山野の草木を刈り取って田畑に敷き込む刈敷(かりしき)や、それらを焼いて灰にした草木灰(そうもくばい)などの肥料を多用するようになった。また、裏作の麦を収穫した直後に田植えに向けた準備を急いで行わなければならないため、高度な労働集約と、水を適切に管理するための灌漑・水利技術の整備が必要不可欠であった。二毛作の普及は、厳しい自然環境と領主の支配下にあった中世の農民たちの絶え間ない技術的工夫の結晶と言える。

余剰生産物の創出と商品経済の進展

二毛作の普及が歴史的に極めて重要である理由は、これが農村に余剰生産物をもたらし、中世社会の経済構造を根本から変革した点にある。当時の荘園領主や地頭に納める年貢は主に米(表作)であったため、裏作として収穫された麦の多くは農民自身の貴重な食糧となるか、市場で売却するための商品作物となった。この結果、各地の交通の要衝や寺社の門前などで、月に数回開かれる定期市(三斎市など)が活発化した。さらに、生産物を売買する過程で宋銭などの渡来銭が農村部まで広く流通するようになり、日本の中世における貨幣経済の発展を強力に推し進める原動力となったのである。

農民の自立と室町時代への展開

経済的な余裕を得て力をつけた農民たちは、次第に領主の支配に対して自立的な姿勢を見せるようになる。二毛作に必要な水利施設や入会地(肥料を採集する山野)の管理を共同で行う必要性も相まって、農民同士の連帯が強まり、やがて室町時代における惣村(そうそん)と呼ばれる自治的な村落共同体の形成や、土一揆の発生へと繋がる社会的基盤が築かれた。室町時代に入ると、二毛作は関東地方などさらに広い地域へと波及し、畿内の一部などの先進地域では、米・麦に加えてソバなどを栽培する三毛作までもが行われるようになり、日本の農業生産力は次なる段階へと飛躍を遂げることになった。

日本中世の非農業民と天皇 (1984年)

中世社会の周縁で生きた人々と天皇の権威との交錯を描き出し、歴史の新たな地平を切り拓く重厚な学術書。

日本農業発達史 9―明治以降における 農学の発達

明治以降の技術革新や農政の展開を追い、近代日本の経済的基盤となった農業技術の発展の足跡を辿る労作。

最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

日本史一問一答(ランダム)

Q. 出雲大社の祭神であり、葦原中国(あしはらのなかつくに)の国造りを完成させたのち、高天原の神々に国土を譲ったとされる神は誰か?
Q. 備前国今村宮の神職であり、病から回復する際に天照太神と一体化する体験を得て黒住教を創始した人物は誰か?
Q. 12世紀から中国の南半部を支配し、日本と盛んに貿易を行っていたが、フビライ=ハンによって滅ぼされた王朝は何か?