叡尊(思円)

鎌倉時代中期に戒律の復興を唱えて真言律宗を開き、弟子の忍性とともに病人の救済や社会事業に尽力した僧は誰か?
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叡尊(思円) (えいそん(しえん)

1201年 – 1290年

【概説】
鎌倉時代中期の僧で、真言律宗の開祖。荒廃していた南都の西大寺を復興して戒律の重視を説き、非人救済や架橋などの社会事業に尽力した。旧仏教の内部から自己革新を推進し、民衆救済に多大な貢献を果たした人物である。

旧仏教の革新と真言律宗の開宗

鎌倉時代前期の仏教界では、法然や親鸞らに代表される「鎌倉新仏教」が台頭しつつあった一方で、南都六宗や天台宗などの旧仏教は権門と結びつき、僧侶の世俗化や戒律の形骸化といった著しい堕落のなかにあった。大和国(現在の奈良県)に生まれた叡尊(字は思円)は、当初は醍醐寺や高野山で真言密教を学んだが、やがて当時の仏教界の腐敗を嘆き、出家者が守るべき規範である戒律の復興こそが仏教の再生に不可欠であると痛感するに至った。

1236年、叡尊は覚盛(かくじょう)ら志を同じくする僧たちとともに東大寺で自誓受戒(仏や菩薩を証人として自ら戒を誓う儀式)を行い、戒律の厳格な実践を宣言した。その後、荒廃していた南都の西大寺を拠点として再興を図り、真言密教の教理と戒律の実践を融合させた真言律宗を確立したのである。叡尊の活動は、新仏教の登場に対する旧仏教側からの強烈な自己革新運動であった。

文殊信仰に基づく非人・社会的弱者の救済

叡尊の宗教活動における最大の特徴は、自らの戒律の実践にとどまらず、それを民衆に対する徹底した利他行(社会事業)へと昇華させた点にある。彼は「貧窮孤独の衆生を救済することこそが文殊菩薩の精神である」という文殊信仰を深く抱いており、当時社会の最底辺に置かれ、差別と貧困に苦しんでいたハンセン病患者や非人と呼ばれた人々の救済に身を投じた。

叡尊は各地に悲田院を設け、彼らに食物や衣服を施し、湯浴みを行わせるなど、自らの手で直接的な保護活動を展開した。こうした叡尊の精神と実践は、愛弟子である忍性(にんしょう)へと引き継がれ、忍性は後に鎌倉の極楽寺を拠点として東国に真言律宗の教線を広げ、さらなる社会事業の大展開を行うこととなる。

インフラ整備と蒙古襲来時の祈祷

社会的弱者の救済のみならず、叡尊は民衆の生活を支えるための土木事業(インフラ整備)にも積極的に関与した。交通の難所における道路の改修や、宇治橋をはじめとする橋の修造、さらには殺生禁断を目的とした放生池の造成など、その活動は多岐にわたる。これらの事業は、民衆の生活を物理的に助けるとともに、社会全体に仏法の功徳を行き渡らせるという宗教的な意味を持っていた。

また、叡尊はその高い徳と戒行により、武家政権や朝廷からも深い帰依を受けた。特に蒙古襲来(元寇)の際には、亀山上皇の勅命を受けて石清水八幡宮などで敵国降伏の祈祷を行い、異国からの脅威を退けた(神風を吹かせた)として朝野の絶大な尊敬を集めた。90歳で入滅した後、後伏見天皇から興正菩薩(こうしょうぼさつ)の諡号(しごう)が贈られ、その生涯にわたる仏教界の刷新と民衆救済の功績が称えられている。

鎌倉新仏教論と叡尊教団

鎌倉新仏教の変遷を叡尊教団という多角的な視点から精緻に解き明かし、中世思想史に新たな光を当てる野心的な学術書。

中世寺院社会の研究 (思文閣史学叢書)

中世寺院社会の構造を網羅的な史料分析で浮き彫りにし、当時の宗教空間と人々の営みを体系的に読み解く重厚な論考集。

最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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