五摂家 (ごせっけ)
13世紀中期〜1884年
【概説】
鎌倉時代中期以降、朝廷の最高職である摂政・関白に就任できる家柄として固定された藤原北家の五つの家系。近衛家、九条家、二条家、一条家、鷹司家を指す。平安朝以来の摂関政治の権威を保持し、明治時代に華族制度が整備されるまで存続した。
五摂家の成立とその背景
平安時代中期に藤原道長・頼通の親子によって全盛期を迎えた摂関政治は、院政の開始や武家政権(鎌倉幕府)の成立によって次第に政治的実権を失っていった。そうした中、鎌倉時代初期に摂関家は、藤原忠通の子である基実を祖とする近衛家と、兼実を祖とする九条家の二つの家流に分かれた。その後、近衛家から鷹司家が分立し、九条家からは二条家と一条家が分立したことで、13世紀半ばまでに計五つの家系(五摂家)が成立した。これ以降、摂政・関白の地位はこれら五家によって独占され、交代で就任されることが朝廷の強固な先例となった。
中世・近世における役割と終焉
五摂家の形成は、朝廷内部の家格秩序を安定させ、摂関職をめぐる過度な相論を回避するための役割を持っていた。室町時代や江戸時代において政治の実権は武家政権が握っていたが、五摂家は朝廷における最高位の格式と権威を保持し続けた。戦国時代末期に豊臣秀吉が関白に就任したことは極めて異例の事態であり、江戸幕府が制定した「禁中並公家諸法度」でも五摂家の特権的な地位は公認されていた。この体制は明治維新にともなう摂関制の廃止まで続き、1884年の華族令制定によって五摂家はいずれも最高位の公爵に列せられた。