臨時雑役 (りんじぞうやく)
【概説】
平安時代中期の王朝国家体制において、律令制下における従来の雑徭などが変化し、名田を基準として課されるようになった労役および雑税。国衙の雑多な財政需要を満たすため、田地の面積に応じて負名(ふみょう)に賦課された。
律令制の崩壊と課税基準の転換
古代の律令制において、公民の労役負担としては年間最大60日の地方での使役を課す雑徭(ぞうよう)が存在し、これは戸籍・計帳に基づく人頭支配(個別人身支配)を前提としていた。しかし、9世紀から10世紀にかけて偽籍の増加や農民の逃亡が相次ぎ、戸籍を通じた人頭把握は事実上崩壊してしまった。
これに対応するため、朝廷や国衙(諸国の役所)は課税の基準を「人」から「土地」へと大きく転換させた。公の田地を名田(みょうでん)という単位に編成し、これを請け負う有力な農民(田堵・負名)に対して租税を賦課する体制へと移行したのである。この新たな国家体制(王朝国家体制)の成立に伴い、かつて人頭税として徴収されていた雑徭は、名田の面積(段数)を基準とする土地税としての性格を強め、「臨時雑役」として再編されることとなった。
賦課の実態と「物納化」の進展
臨時雑役は、国衙が管内で行う祭祀や、国衙庁舎の修造、道路・橋梁の建設、さらには国司の私的な用務など、多岐にわたる雑多な用途のために賦課された。名称に「臨時」とあるものの、突発的な負担というよりは、国衙の恒常的な経費を補うために随時割り当てられる負担であった。
課税は名田の面積に応じて均等に行われたが、時代が下るにつれて、農民が直接現場へ赴き労働力を提供する形から、その労役に見合う価値の物品(布、筵、食料品、各種の手工業製品など)を納入する「代納(物納化)」が一般化していった。この結果、平安時代後期の国衙の徴税体系は、主に従来の租・庸・調に由来する官物(かんもつ/後の年貢)と、雑徭に由来するこの臨時雑役という二本柱に整理・統合されたのである。
荘園公領制の形成と「臨時雑役免」
11世紀に入り、有力貴族や寺社へ寄進される荘園が増加すると、臨時雑役の存在は荘園領主と国司(受領)との間で激しい対立の火種となった。国衙は、たとえ私領である荘園であっても、国内の公的なインフラ維持等のための負担として臨時雑役を賦課しようとした。一方、荘園領主側は太政官符や民部省符を獲得し、自己の荘園に対する臨時雑役の免除(臨時雑役免)を強く主張した。
11世紀中葉以降、この臨時雑役免の特権を獲得した荘園(免荘)が広く承認されるようになると、負担義務が免除された荘園と、引き続き臨時雑役を負担しなければならない公領(国衙領)とが明確に区分されるようになった。このように、臨時雑役の賦課と免除をめぐる国衙と荘園領主のせめぎ合いは、中世における土地制度の根幹である荘園公領制を確立させる極めて重要な歴史的契機となったのである。