荘園公領制 (しょうえんこうりょうせい)
【概説】
11世紀後半から12世紀頃までに成立した、全国の土地が権門勢家の支配する「荘園」と、国司が支配する「公領(国衙領)」の二つのブロックに編成された中世の土地支配体制。律令制下の公地公民制が崩壊するなかで新たな収取基盤として確立し、豊臣秀吉の太閤検地で解体されるまで中世社会の根幹を成した。
律令制の崩壊と新体制の萌芽
9世紀から10世紀にかけて、戸籍や計帳に基づく人頭税を基本とした律令制的な収取体制は深刻な行き詰まりを見せていた。そこで朝廷は方針を転換し、国司の筆頭官である受領に一定の税収を請け負わせる代わりに大幅な権限を与え、土地(名田)を基準とした課税へと移行した。こうした中、地方では有力な農民や土着した貴族らが自ら荒野を開墾し、「開発領主」と呼ばれる地方豪族へと成長していく。彼らは国司からの過酷な徴税逃れや、自身の土地の権利を保全するため、中央の有力な貴族や寺社(権門勢家)に土地を名目上寄進し、自らは現地の管理者としてとどまるようになった。これが「寄進地系荘園」の始まりである。
荘園と公領の並立と国衙領の再編成
11世紀後半、後三条天皇が発布した延久の荘園整理令(1069年)などを経て、基準を満たさない荘園が停廃される一方で、記録所によって公認された荘園は明確な領域と権利(不輸・不入の権など)を確立していった。同時に、国司が支配する公領(国衙領)の側も、急速に拡大する荘園に対抗して国衙の支配体系を再編成する必要に迫られた。
国司は、かつての行政区画であった郡や郷を再編し、あるいは新たな開発地を「保」として設定して、郡・郷・保という新たな収取単位を編成した。そして、それぞれに郡司・郷司・保司と呼ばれる在庁官人(地方の有力武士など)を任命して徴税を請け負わせたのである。これにより、全国の土地は皇室・大貴族・大寺社を領主とする「荘園」と、国衙が支配する「公領」という二つのブロックに明確に二分され、両者が並立してモザイク状に混在する「荘園公領制」が完成した。
重層的な土地支配構造:「職」の体系
荘園公領制における最大の特徴は、近代的な「一つの土地に一つの絶対的な所有権」という概念が存在せず、複数の身分階層が重層的に権利と収益を分け合う「職(しき)の体系」が形成された点にある。
例えば一つの荘園において、現地の事実上の開発者である開発領主は「預所」や「下司」といった荘官の職を得て実質的な土地管理を行い、その下で名田の経営を請け負う有力農民は「名主」として作人の職を持った。そして、寄進を受けた上級領主である「領家」や、さらにその上の最高位の領主である「本家」は、一定の年貢や公事を受け取る権利(本家職・領家職)を保持した。このように、収益権が各階層で分割・重層化されながら維持される体制こそが、中世社会の経済的基盤であった。
武家政権の進出と体制の変容・解体
12世紀末に鎌倉幕府が成立すると、源頼朝は国ごとに守護を、荘園や公領ごとに「地頭」を設置する権利を獲得した。地頭には主に関東の御家人が任命され、彼らは現地で年貢の徴収や治安維持にあたった。さらに承久の乱(1221年)以降、西国にも大量の新補地頭が配置されると、地頭による年貢の未納や横領、荘官・領家との紛争が激化していく。これに対して、土地そのものを領家と地頭で分割する下地中分や、地頭に年貢の納入を請け負わせる地頭請などが行われたが、結果として武士による土地の侵食をさらに進めることとなった。
室町時代に入ると、各国の軍事・警察権を握る守護大名が国内の荘園や公領を実質的に横領し、直接支配下に置く「守護請」や「一円知行」化が進み、荘園公領制の実態は急速に形骸化していった。そして16世紀末、豊臣秀吉が行った太閤検地によって、一つの土地に対して一人の耕作権者(直接の納税責任者)を定める「一地一作人の原則」が打ち立てられ、「職の体系」は完全に否定された。これにより、数百年続いた荘園公領制は名実ともに完全に解体し、近世的な新たな土地支配体制へと移行したのである。