鳥羽上皇(鳥羽法皇) (とばじょうこう / とばほうおう)
【概説】
平安時代後期の第74代天皇、および白河上皇の崩御後に政務を主導した「治天の君」。祖父の白河院政を継承・修正しながら独自の強力な権力基盤を築いたが、その崩御は平安末期の動乱である保元の乱を引き起こす契機となった。
白河院政の継承と独自の政治展開
鳥羽天皇は、祖父である白河上皇の強力な主導のもとで幼くして即位した。1129年に白河上皇が崩御すると、鳥羽上皇はただちに実権を掌握し、第二代の「治天の君」として院政を開始した。鳥羽上皇は、祖父の専制的な政治スタイルを一部修正しつつも、自身の院政を支える官僚層や武士勢力を巧妙に組織化した。
特に、白河期に冷遇されていた藤原摂関家との融和を図る一方で、実務官人である藤原通憲(信西)や、新興の軍事貴族である伊勢平氏の平忠盛・平清盛父子を重用した。これにより、院の軍事力と財政基盤は大きく強化され、全国から多くの荘園が院に寄進されることとなった。これが、のちに巨大な皇室領荘園となる八条院領の基盤を形成することになる。
皇位継承をめぐる確執と保元の乱への道
鳥羽上皇の政治的権力が絶頂に達する一方で、その宮廷内部では次代の皇位継承をめぐる深刻な対立が芽生えていた。鳥羽上皇は、寵愛する美福門院(藤原得子)との間に生まれた近衛天皇を即位させるため、第一皇子であった崇徳天皇を半ば強制的に退位させた。この措置は崇徳上皇に深い恨みを残すこととなった。
さらに、近衛天皇が若くして崩御すると、崇徳上皇の院政開始を恐れた鳥羽上皇や美福門院らは、崇徳の同母弟である雅仁親王(後白河天皇)を擁立した。この強引な皇位継承対策により、崇徳上皇と後白河天皇の対立は決定的なものとなった。1156年、鳥羽法皇が崩御すると、抑え役を失った朝廷内で一気に緊張が高まり、皇室と摂関家の内部対立に武士の力が結びついた保元の乱が勃発することとなる。この乱を境に、歴史の主役は貴族から武士へと大きくシフトしていくこととなった。