院庁 (いんのちょう)
【概説】
上皇(院)や女院の御所に置かれ、家政や政務を処理した機関。平安時代後期の院政期において、従来の太政官制を形骸化させ、事実上の国政の最高意思決定機関として機能した。
家政機関から国政の最高機関への変貌
もともと院庁は、退位した天皇である上皇や、皇太后などの女院の私的な家政(所領の管理や日常の雑務)を処理するための私的機関であった。しかし、1086年に白河上皇が幼少の堀河天皇を即位させて独自の政治(院政)を開始すると、その性格は一変した。
上皇が天皇の後見人として専制的な権力を振るうようになると、朝廷の正規の官司である太政官(二官八省)を通さず、上皇の意思が院庁を通じて直接社会に下達されるようになった。これにより、院庁は単なる私的な家政機関から、国家の重要政策や人事、裁判などを決定・執行する事実上の最高政治機関へと変貌を遂げたのである。
院庁の組織と「院近臣」の台頭
院庁の最高責任者は院別当(いんのべっとう)と呼ばれ、公卿(高位の貴族)の中から信頼の厚い者が任じられた。その下で実務を担う中下級の貴族たちは「院司(いんし)」と呼ばれ、彼らは上皇の側近グループである院近臣(いんのきんしん)を形成した。
院近臣たちは、伝統的な門閥貴族に対抗して上皇の側近奉仕に励み、知行国(国司の推薦権)や莫大な富を獲得して政治権力を握った。また、院庁の警備や軍事力を担う存在として北面武士(ほくめんのぶし)などが組織され、これが平氏をはじめとする武士の台頭を促す温床となった。
文書の発給と院庁の歴史的意義
院庁から発給された代表的な公文書が院庁下文(いんのちょうくだしぶみ)である。この下文は、太政官を経由する正規の「太政官符」よりも迅速かつ強力に効力を発揮したため、各地の受領(国司)や荘園領主への命令、および新設された荘園の公認に多用された。この仕組みを利用して、上皇は全国から膨大な寄進地系荘園(八条院領や長講堂領など)を院庁直属の荘園として集積し、皇室の巨大な経済基盤を築き上げた。
院庁は中世の開幕を象徴する権力機関であったが、1221年の承久の乱で後鳥羽上皇が鎌倉幕府に敗北すると、院政の権能は大幅に制限され、院庁も徐々にその政治的実権を失い、再び皇室の私的な家政機関へと縮小していくこととなった。