熊野詣 (くまのもうで)
【概説】
紀伊国南部に位置する熊野三山(熊野本宮、熊野新宮、熊野那智)への参詣のこと。平安時代後期の院政期に上皇たちが頻繁に行ったことを契機として、次第に貴族や武家、一般庶民へと広がり、大勢の人が列をなす様子は「蟻の熊野詣」と称された。
熊野信仰と浄土教の結びつき
熊野は古代より険しい自然環境を背景とした山岳信仰の霊場であった。平安時代中期以降に神仏習合が進行すると、熊野三山の祭神はそれぞれ仏の仮の姿(権現)であるとされ、本宮は阿弥陀如来、新宮は薬師如来、那智は千手観音を本地仏とするようになった。同時期に末法思想の蔓延から浄土教が隆盛を極めると、紀伊半島の深い山林に位置する熊野は「現世の阿弥陀浄土」と見なされるようになった。死後の極楽往生や現世利益を願う人々にとって、熊野は現世と他界が交錯する究極の聖地として立ち現れたのである。
院政期の上皇による熊野御幸
熊野詣が政治的・社会的に大きな意味を持つようになったのは、平安時代後期の院政期である。1090年(寛治4年)の白河上皇による参詣を皮切りに、鳥羽上皇、後白河上皇、後鳥羽上皇らによって大規模な熊野御幸(くまのごこう)が繰り返された。なかでも後白河上皇は生涯で34回にも及ぶ参詣を行っている。京都から往復1ヶ月近くかかる険しい道のりをあえて踏破した背景には、深い仏教帰依を示すことで自らの宗教的権威を高め、専制的な院政の正当性を強化しようとする上皇たちの政治的な狙いがあった。
「蟻の熊野詣」と呼ばれる大衆化
上皇や有力貴族の参詣が活発化すると、それに追随するように武士や庶民の間にも熊野信仰が急速に浸透していった。熊野の神仏は身分や老若男女を問わず、さらには当時忌避されがちであった女性の血の穢れなどの浄不浄をも問わず、すべての人々を平等に救済するという極めて寛容な性格を持っていた。このため階層を問わず多くの人々が救済を求めて熊野を目指すようになり、大勢の参詣者が列をなして切れ目なく熊野古道を歩く様子は「蟻の熊野詣」と形容され、一種の社会現象となった。
信仰の広がりを支えた先達と御師
交通網が未発達な時代に全国的な熊野詣の流行が可能だった背景には、独自の布教・案内システムが存在した。熊野の山中で厳しい修行を積んだ修験者(山伏)たちは、先達(せんだつ)として全国各地を巡って熊野信仰の功徳を説き、参詣者を組織して道案内を務めた。また、現地である熊野三山には御師(おし/おんし)と呼ばれる下級神職がおり、彼らは遠方から訪れた参詣者の宿泊の世話や祈祷の手配を引き受けた。先達と御師が強固に結びついたこのネットワークは、中世を通じて日本各地に熊野神社が勧請(かんじょう)される基盤となり、熊野信仰を日本社会の隅々にまで深く根付かせる原動力となった。