源義親の乱 (みなもとのよしちかのらん)
【概説】
平安時代後期の1107年から1108年にかけて、源義家の子である源義親が山陰地方で引き起こした反乱。白河上皇の院政期において、武士の勢力図に決定的な影響を与えた事件。追討使となった伊勢平氏の平正盛によって鎮圧されたことで、河内源氏の没落と伊勢平氏の台頭をもたらす契機となった。
「悪対馬守」義親の暴走と反乱の背景
源義親は、「天下の第一武勇」と称された高名な武将・源義家(八幡太郎)の三男であった。しかしその性質は極めて粗暴であり、対馬守に任じられた際には、任地や九州各地で大宰府の命に従わず、人民の財産を掠奪し殺害を繰り返すなどの横暴を働いた。このため朝廷から「悪対馬守」と断罪され、1106年に隠岐国への流罪に処された。
しかし義親は配流地にとどまることなく、翌1107年に隠岐を脱出して対岸の出雲国へ渡った。そこで義親は現地を統治していた目代(国司の代理人)を殺害し、官物を奪うなどの暴挙を重ねて朝廷への反逆姿勢を明確にした。ここに及んで白河上皇は義親の追討を決定した。
平氏台頭と源氏衰退のターニングポイント
白河上皇は、義親追討の任を伊勢平氏の平正盛に下した。正盛はのちの平清盛の祖父にあたる人物である。平正盛は速やかに出雲へ下向して義親を討伐し、1108年に義親の首級を掲げて京都に凱旋した。この功績により、正盛は但馬守に任じられるなど、院の近臣としての地位を確固たるものにした。
この事件は、平安後期の二大武士団の運命を大きく分ける分水嶺となった。河内源氏は、惣領であった源義家の死に加えて、後継者と目された義親が朝敵となって討たれたことで、名声を著しく失墜させた。さらにこの後、源氏一族内での血生臭い内紛(義忠の暗殺など)が誘発され、勢力は急速に衰退した。これに対し、乱を鎮圧した伊勢平氏は、院政の軍事力(院武者)として朝廷内での存在感を急速に高め、後の平氏政権樹立へとつながる道筋を切り開くこととなった。