源義親の乱

1108年、源義家の子が出雲国で起こした反乱で、これを鎮圧した平正盛が白河上皇の信任を得るきっかけとなった事件は何か。
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【参考リンク】
源義親の乱(Wikipedia)

源義親の乱 (みなもとのよしちかのらん)

1107〜1108年

【概説】
平安時代後期の1107年から1108年にかけて、源義家の子である源義親が山陰地方で引き起こした反乱。白河上皇の院政期において、武士の勢力図に決定的な影響を与えた事件。追討使となった伊勢平氏の平正盛によって鎮圧されたことで、河内源氏の没落と伊勢平氏の台頭をもたらす契機となった。

「悪対馬守」義親の暴走と反乱の背景

源義親は、「天下の第一武勇」と称された高名な武将・源義家(八幡太郎)の三男であった。しかしその性質は極めて粗暴であり、対馬守に任じられた際には、任地や九州各地で大宰府の命に従わず、人民の財産を掠奪し殺害を繰り返すなどの横暴を働いた。このため朝廷から「悪対馬守」と断罪され、1106年に隠岐国への流罪に処された。

しかし義親は配流地にとどまることなく、翌1107年に隠岐を脱出して対岸の出雲国へ渡った。そこで義親は現地を統治していた目代(国司の代理人)を殺害し、官物を奪うなどの暴挙を重ねて朝廷への反逆姿勢を明確にした。ここに及んで白河上皇は義親の追討を決定した。

平氏台頭と源氏衰退のターニングポイント

白河上皇は、義親追討の任を伊勢平氏の平正盛に下した。正盛はのちの平清盛の祖父にあたる人物である。平正盛は速やかに出雲へ下向して義親を討伐し、1108年に義親の首級を掲げて京都に凱旋した。この功績により、正盛は但馬守に任じられるなど、院の近臣としての地位を確固たるものにした。

この事件は、平安後期の二大武士団の運命を大きく分ける分水嶺となった。河内源氏は、惣領であった源義家の死に加えて、後継者と目された義親が朝敵となって討たれたことで、名声を著しく失墜させた。さらにこの後、源氏一族内での血生臭い内紛(義忠の暗殺など)が誘発され、勢力は急速に衰退した。これに対し、乱を鎮圧した伊勢平氏は、院政の軍事力(院武者)として朝廷内での存在感を急速に高め、後の平氏政権樹立へとつながる道筋を切り開くこととなった。

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最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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