日宋貿易

平清盛が平氏の経済基盤を強化するために積極的に推進した、中国の王朝との貿易を何というか。
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日宋貿易

10世紀〜13世紀

【概説】
平安時代中期から鎌倉時代にかけて、日本と中国の宋王朝との間で行われた貿易。特に平安時代末期に平清盛が積極的に推進し、大輪田泊を修築して宋船を畿内へ招き入れたことで知られる。大量に輸入された宋銭や唐物は、平氏政権の強力な経済的基盤を形成した。

私貿易の発展と平清盛の着目

9世紀末に遣唐使が停止されて以降、日本と中国との間には正式な国交が存在しなかった。しかし、民間レベルでの交流が途絶えたわけではなく、10世紀後半に中国大陸を統一した宋(北宋)の商人は、頻繁に九州の博多などに拠点を置き、日本の商人や在地領主との間で私的な交易を行っていた。平安時代中期の貴族社会では、これら宋からの舶来品が「唐物(からもの)」としてもてはやされ、富と権力の象徴となっていた。

こうした中、12世紀に台頭した平清盛は、日宋貿易がもたらす莫大な経済的利益にいち早く目をつけた。清盛は越前守や大宰大弐といった西国の要職を歴任する過程で、瀬戸内海の海賊を平定して航路を掌握し、博多を中心に行われていた貿易を自身の強い影響下に置くことに成功した。清盛の主導により、日宋貿易は単なる私貿易から、半ば国家的な事業へとその性格を大きく変えていくことになる。

大輪田泊の修築と直接交易

貿易の利益を独占し、さらに規模を拡大するため、清盛は貿易の拠点を九州の博多から都に近い畿内へと移すことを画策した。そのための大事業が、摂津国にある大輪田泊(おおわだのとまり、現在の兵庫県神戸港の一部)の大規模な修築である。

当時の宋の商船は大型化しており、水深の浅い港や整備されていない航路では寄港が困難であった。清盛は巨額の私財を投じて波止場(経が島)を築くなど港湾設備を整えるとともに、瀬戸内海航路(音戸の瀬戸など)の開削・整備を進めた。これにより、宋の大型商船が直接瀬戸内海を航行し、畿内である大輪田泊まで来航することが可能となった。清盛は後白河法皇を伴って宋の商人と面会するなど、従来の朝廷の慣例を打ち破る積極的な外交・通商政策を展開した。

宋銭の流入と貨幣経済への影響

日宋貿易における主な輸出品は、金、水銀、硫黄、木材、刀剣や扇などの工芸品であった。一方、輸入品には絹織物、陶磁器、香料、薬品などの唐物のほか、最も重要なものとして宋銭(銅銭)が挙げられる。

当時の日本では、10世紀の乾元大宝を最後に国家による貨幣(皇朝十二銭)の鋳造が途絶え、米や絹布を基準とする物品貨幣の段階に逆戻りしていた。しかし、日宋貿易を通じて大量の宋銭が国内に流入したことで、日本社会に再び貨幣経済が急速に浸透し始めた。都市部を中心に商品の売買に銭が用いられるようになり、のちの鎌倉時代における年貢の銭納化や、流通経済の飛躍的な発展をもたらす最大の要因となった。

平氏政権の繁栄と文化的意義

日宋貿易によって蓄積された巨万の富は、平氏政権の強大な政治的・軍事的基盤となった。「平家にあらずんば人にあらず」と称されるほどの栄華は、武力や官位だけでなく、この国際貿易による圧倒的な経済力に裏打ちされていたのである。清盛が篤く信仰した厳島神社に奉納された豪華絢爛な『平家納経』なども、大陸由来の富と技術の結晶といえる。

また、日宋貿易は単に物資の行き来にとどまらず、文化的・宗教的な交流の窓口としても機能した。栄西や道元らによる禅宗の伝来、茶の湯の習慣、そして東大寺南大門に代表される大仏様(天竺様)などの宋風建築技術も、この貿易ルートを通じて日本にもたらされたものであり、中世日本の文化形成に計り知れない影響を与えた。

日宋貿易と仏教文化

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最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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