六波羅(六波羅政権) (ろくはら)
【概説】
京都の鴨川東岸、五条から七条にかけての地名。平清盛ら平氏一門が邸宅を構えて政治・軍事の拠点としたことから、平氏政権の代名詞となった。のちの鎌倉幕府による京都支配の拠点である「六波羅探題」の名称の由来ともなった、武家政治史における重要地である。
平氏一門の進出と「六波羅」の発展
六波羅は、平安京の東限を流れる鴨川の東岸に位置する。古くは平安時代中期に空也が西光寺(のちの六波羅蜜寺)を創建した霊地であり、また葬送の地である鳥辺野の入り口にもあたる辺境の地であった。この地に武士が足がかりを得たのは、院政期に伊勢平氏の平正盛・平忠盛父子が院近臣として台頭し、朝廷から賜った土地に邸宅を構えたことに始まる。
平清盛の代になると、六波羅には一門の邸宅群が次々と建設され、軍事的な防衛拠点としての機能も高められた。京都の都市境界に位置する六波羅は、武装した武士団が独自の集団生活を送るのに適しており、西国や東国へとつながる交通の要衝でもあった。やがてこの地は、平氏一門の政治権力の心臓部へと変貌していくこととなる。
「六波羅政権」の特質と歴史的意義
1167年に平清盛が太政大臣に就任し、平氏が朝廷の実権を握ると、彼らの本拠である六波羅は実質的な政庁として機能した。この時期の平氏による支配体制は、後世の歴史学において「六波羅政権」とも呼ばれる。
六波羅政権は、従来の公家社会のルールに依拠しつつも、平氏が知行国や公領を支配し、日宋貿易の利得を背景に強大な経済力を誇った。六波羅の邸宅には多くの公卿や貴族が出入りし、実質的な政治決定が朝廷ではなく六波羅で行われるなど、事実上の「武家政権の祖」としての性格を帯びていた。しかし、公家社会への過度な同化や急速な一門による権力の独占は、旧来の貴族や大寺社、さらには地方の武士層からの反発を招き、政権の短命化をもたらす要因ともなった。
平氏滅亡と「六波羅探題」への継承
1183年、木曽義仲(源義仲)の入京が迫ると、平氏は六波羅の邸宅群に自ら火を放って西国へと都落ちし、六波羅政権は崩壊した。しかし、平氏が去った後も、六波羅が持つ政治的・軍事的重要性が失われることはなかった。
東国に独自の武家政権(鎌倉幕府)を樹立した源頼朝は、平氏の滅亡後、六波羅の跡地に京都守護を置いて治安維持に当たらせた。そして1221年の承久の乱の後、幕府は朝廷の監視と西国の統轄を徹底するため、この地に六波羅探題(北方・南方)を設置した。かつて初の武家政権として栄華を誇った六波羅は、鎌倉幕府が朝廷を抑え、日本全土へ支配を広げるための最重要出先機関として、鎌倉時代末期に滅びるまで機能し続けることとなった。