三后

宮中において、太皇太后・皇太后・皇后の3つの地位(后妃)を総称して何というか?
カテゴリ:
重要度
★★

【参考リンク】
后位(Wikipedia)

三后 (さんこう)

701年~

【概説】
日本の律令制において、宮中における最高位の女性に与えられた3つの地位である太皇太后・皇太后・皇后の総称。天皇の配偶者および母族を序列化する制度的枠組みであり、平安時代には摂関政治の展開と結びついて高度に政治的な意味合いを帯びるようになった。

律令制における三后の定義と法的特権

大宝律令(701年)および養老律令(718年)において、三后(さんこう)は天皇に準ずる尊崇を受ける存在として法的に体系化された。具体的には、当代天皇の正妻である「皇后」、先代の皇后または現天皇の母である「皇太后」、先々代の皇后または最長老の后妃である「太皇太后」の3つを指す。

これら三后は、国政や皇室の儀礼においてきわめて高い格式を有していた。それぞれの事務を担当する令外官として、太皇太后宮職、皇太后宮職、中宮職が設置され、経済的基盤として「湯沐邑(とうもくゆう)」や「封戸(ふこ)」が支給されるなど、公的な国家制度の枠組みのなかでその特権的地位が保障されていた。当初、皇后になれるのは皇族出身の女性(皇親皇后)に限られていたが、奈良時代の光明皇后の立后を契機に臣下(藤原氏)からの冊立が容認され、のちの后妃政治の端緒となった。

摂関政治の進展と「中宮」の独立・一帝二后

平安時代中期に藤原北家による摂関政治が本格化すると、三后の制度は本来の律令的規定を越えて変容を遂げた。その最大の契機となったのが、本来は三后の総称やその住居を指す言葉であった「中宮」という呼称の独立である。

一条天皇の時代、権力を握った藤原道長は、すでに藤原伊周の妹である定子が「皇后(中宮)」として冊立されているにもかかわらず、自らの娘である彰子を「中宮」として入内させ、先任の定子を「皇后」と改称させた。これにより、史上初めて一人の天皇に対して二人の后が並立する「一帝二后」の先例が開かれた。これ以降、皇后と中宮は別個のポストとして扱われるようになり、摂関家が自らの娘を天皇の后にして外戚(外祖父)としての地位を確立するための、激しい政治的闘争の道具として機能するようになった。

国母としての政治的影響力と「尊称皇后」の誕生

三后、とりわけ天皇の生母としての地位を兼ねる皇太后や太皇太后は、「国母」として朝廷内で絶大な発言力を行使した。幼少の天皇が即位する摂関政治期において、新天皇の直系母族である国母の存在は、摂政・関白が権力を執奏・執行するための最大の正統性の根拠であった。そのため、后妃がどの実家(多くは摂関家の諸流派)を背景に持っているかが、政界の勢力図を大きく左右した。

さらに、平安後期から鎌倉時代にかけては、天皇の配偶者ではない未婚の皇女(内親王)が、権威付けや政治的配慮から皇后や中宮の地位を授けられる「尊称皇后(客画皇后)」という慣行も成立した。これは三后という地位が、実質的な配偶関係を超えて、皇室の家秩序を再編し、特定の権力を擁護・保証するための純粋な政治的シンボルとして機能していたことを物語っている。

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最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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