奈良時代後期
【概説】
淳仁天皇の即位から光仁天皇の治世、および長岡京遷都に至るまでの時代区分。藤原仲麻呂や僧・道鏡の台頭など皇位継承をめぐる激しい政争が相次ぐ一方で、墾田永年私財法の定着に伴い律令制の基本である公地公民制が動揺し始めた過渡期の時代である。
皇位継承と中央政争の激化:仲麻呂の台頭から道鏡の排斥まで
聖武天皇の譲位以降、奈良時代後期は皇位継承や政治の主導権をめぐる激しい権力闘争の舞台となった。光明皇太后の権威を背景に台頭した藤原仲麻呂(恵美押勝)は、淳仁天皇を擁立して儒教的な官名改称などの改革を推し進めた。しかし、皇太后の没後に孝謙上皇が僧の道鏡を寵愛するようになると、これに危機感を抱いた仲麻呂は764年に兵を挙げた(恵美押勝の乱)。
乱を鎮圧して重祚した称徳天皇(孝謙上皇)のもとで、道鏡は太政大臣禅師から法王へと異例の出世を遂げ、仏教政治を展開した。さらに道鏡を皇位に就けようとする宇佐八幡宮神託事件が起きたが、和気清麻呂らの抗議により挫折した。これら一連の政争は、天武天皇系の皇統が途絶える要因となり、宮廷政治の著しい混乱を示すものであった。
律令支配の動揺と初期荘園の形成
政治の混乱と並行して、社会の基盤となる律令支配にも大きなほころびが見え始めた。743年に発布された墾田永年私財法により、貴族や大寺社による大規模な墾田開発が本格化し、初期荘園の形成が進んだ。これは律令制の根幹であった公地公民制の実質的な崩壊を意味していた。
また、度重なる政争や造寺造仏事業(東大寺大仏開眼など)による財政負担は、百姓の暮らしを圧迫した。過酷な調庸の負担や、兵役・労役から逃れるために、農民が戸籍から逃亡する「浮浪・逃亡」が急増した。これにより班田収授の実施は困難になり、律令国家の税収基盤は崩壊の危機に直面することとなった。
天智系への皇統交代と新時代への胎動
称徳天皇が後継者を定めないまま崩御すると、道鏡は配流され、藤原百川らの画策によって天智天皇の孫である光仁天皇が即位した。これにより、天武系の皇統から天智系の皇統への歴史的な交代が実現した。
光仁天皇の朝廷は、財政再建や国司の監視強化、軍団の廃止(一部を除く)など、これまでの放漫財政から緊縮財政へとシフトし、律令制の再建(行政整理)に着手した。この政治路線は、次代の桓武天皇へと受け継がれ、長岡京遷都や平安京への遷都、ひいては平安時代という新たな時代の開幕へとつながっていく。奈良時代後期は、平城京を舞台とする中央集権国家の限界を露呈しつつ、次代の新たな支配秩序を模索した過渡期として極めて重要である。