南路 (なんじ)
【概説】
奈良時代後半から平安時代初期にかけて、遣唐使が唐へと渡る際に採用した東シナ海横断航路。従来の安全な朝鮮半島沿岸を経由する「北路」が新羅との関係悪化によって使用困難となったため、やむを得ず選択された極めて危険なルートである。
北路の途絶と南路採用への外交的背景
遣唐使の派遣が始まった7世紀前半、倭(日本)の船は対馬・壱岐から朝鮮半島の西岸を北上し、山東半島へと渡る「北路(ほくじ)」を主に使用していた。このルートは視界に常に陸地を捉えながら航行できるため安全性が高かった。しかし、7世紀後半の白村江の戦い以降、日本と新羅の緊張関係が断続的に続いた。さらに8世紀半ば、奈良時代の藤原仲麻呂(恵美押勝)政権期には、新羅が日本の対等な外交要求を拒絶したことなどから両国の関係は決定的に悪化し、日本側で新羅征討計画が立案されるまでに至った。この結果、安全な北路の利用は事実上不可能となり、日本は危険を冒してでも新羅を回避する「南路」を選択せざるを得なくなったのである。
暴風雨と闘う命がけの東シナ海横断
南路は、肥前国(現在の長崎県)の五島列島(値嘉島)などを最終出発地とし、そこから一気に東シナ海を西へと横断して、長江下流域(明州や揚州など)を目指すルートである。また、薩摩(鹿児島県)から南西諸島を経由して渡る「南島路(なんとうじ)」も南路の一環、あるいはその先駆として機能した。当時の造船技術や平底の準構造船では、外洋の荒波や突発的な暴風雨に耐えることが困難であり、さらに羅針盤のない時代において星や太陽のみを頼りにする航海は困難を極めた。そのため、南路への移行後は遭難率が飛躍的に高まり、4隻で編成された遣唐使船(「四つのよつ船」)のうち、無事に目的地に往復できたのは半数程度という、文字通り命がけの航海となった。
危険を乗り越えた渡航者たちと日本文化への影響
この過酷な南路を渡り、歴史に名を残した人物は多い。幾度もの遭難と失明を乗り越えて来日した唐の高僧・鑑真や、唐からの帰国途上に遭難して命を落とした遣唐留学生・阿倍仲麻呂などの悲劇は、南路の危険性を象徴している。しかし、この命がけの航路を通じて、9世紀初頭には最澄や空海が唐へ渡り、それぞれ天台宗と真言宗を日本にもたらして平安仏教の基礎を築いた。また、円仁が著した『入唐求法巡礼行記』には、南路における凄惨な航海の実態がリアルに記録されている。南路は多くの犠牲を強いたものの、日本が独自の国家意識を保ちつつ、唐の高度な仏教文化や律令制度を直接受容するための不可欠な架け橋であったと言える。