阿倍仲麻呂 (あべのなかまろ)
【概説】
奈良時代前期から後期にかけての官僚・歌人で、遣唐留学生として唐に渡り、科挙に合格して玄宗皇帝に仕えた人物。
吉備真備や玄昉らと共に渡海したが、数度の帰国の試みも荒天などに阻まれ、ついに日本への帰還を果たせぬまま長安で客死した。
李白や王維ら盛唐を代表する文人たちとも親交を結び、日唐文化交流の象徴的存在として知られている。
遣唐留学生としての入唐と科挙合格
阿倍仲麻呂は698年、中務大輔・阿倍船守の長男として生まれた。若くして学才に恵まれ、717年(養老元年)の第9次遣唐使において、吉備真備や僧の玄昉らと共に留学生(るがくしょう)として唐の都・長安へ渡った。当時の唐は玄宗皇帝の治世下で、「開元の治」と呼ばれる全盛期を迎えていた。長安の太学(国立大学)で経史を学んだ仲麻呂は、外国人としては極めて稀なことに、唐の高度な官僚登用試験である科挙(進士科)に合格するという快挙を成し遂げた。
唐王朝での栄達と盛唐文人との交流
科挙合格後の仲麻呂は、唐風の「朝衡(または晁衡:ちょうこう)」という名を名乗り、玄宗皇帝に仕えた。左春坊司経局校書を皮切りに、左拾遺、左補闕と順調に昇進を重ね、皇帝の側近として活躍した。彼の優れた文学的教養や詩才は唐の宮廷でも高く評価され、李白や王維、儲光羲といった、盛唐を代表する詩人・文人たちと深い親交を結んだ。一国の留学生の枠を超え、唐の知識人階級の中枢に迎え入れられたことは、日唐文化交流史において特筆すべき出来事である。
度重なる帰国の挫折と望郷の念
唐での滞在が長期化する中、752年に藤原清河を大使とする遣唐使が長安に到着した。これを機に仲麻呂は帰国を決意し、玄宗の許可を得て、翌753年に清河や同行していた鑑真らと共に帰途についた。出航の際、明州(現在の寧波)で催された送別の宴で詠んだとされるのが、百人一首でも有名な「天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも」の和歌である。しかし、彼らの乗った第一船は東シナ海で暴風雨に遭遇し、はるか南方へ流されて安南(現在のベトナム北部)に漂着した。この時、長安では仲麻呂が遭難死したとの誤報が伝わり、李白が「明月不帰沈碧海(明月帰らず碧海に沈む)」と友の死を悼む悲痛な詩(『哭晁卿衡』)を詠んでいる。
安史の乱と長安での客死、その歴史的意義
安南に漂着後、現地での過酷な逃避行を生き延びた仲麻呂と清河は、755年に苦難の末に長安へ帰還した。しかし同年、唐王朝を根底から揺るがす大反乱である安史の乱が勃発し、国内は極度の混乱に陥った。交通路が遮断されたことで、仲麻呂らの帰国の望みは完全に絶たれてしまった。その後も仲麻呂は唐朝に忠実に仕え続け、粛宗・代宗の時代には左散騎常侍、さらには鎮南都護・安南節度使という高位にまで昇り詰めた。そして770年、ついに祖国の土を踏むことのないまま、長安において73年の生涯を閉じた。阿倍仲麻呂の生涯は、単なる遣唐使の悲劇にとどまらず、8世紀の東アジア世界において、国家の枠組みを超えて普遍的な教養と能力を発揮した国際人の先駆的姿を示している。