渤海 (ぼっかい)
【概説】
7世紀末、高句麗の遺民である大祚栄が中国東北部から朝鮮半島北部にかけて建国した国家。唐や新羅を牽制する目的で日本と盛んに交流し、約200年にわたって友好的な外交関係を築いた。
建国の背景と「海東の盛国」
668年に唐と新羅の連合軍によって高句麗が滅亡したのち、その遺民であった大祚栄(だそえい)は、ツングース系の靺鞨(まっかつ)族らを率いて698年に震国を建国した。その後、713年に唐から渤海郡王に封じられたことで国号を渤海と改めた。渤海は高句麗の遺風を受け継ぎながらも、唐の先進的な律令制度や都城制、仏教文化などを積極的に受容して国家体制を整備した。9世紀前半の最盛期には広大な領土と高度な文化を誇り、中国側からも「海東の盛国」と称賛されるほどの繁栄を見せた。
新羅牽制を目的とした日渤交流の開始
建国当初の渤海は、南に国境を接する新羅や西の唐と対立関係にあり、東アジアにおいて国際的に孤立する恐れがあった。そのため、背後から新羅を牽制する目的で、727年に初めて日本へ使節(渤海使)を派遣した。当時の日本(聖武天皇の時代)もまた、白村江の戦い以降に悪化していた新羅との関係に苦慮していたため、渤海からの国交樹立の申し出を好機として歓迎した。こうして両国の結びつきは、新羅を仮想敵国とする軍事的・政治的利害の一致を背景にスタートした。結果として、渤海滅亡までの約200年間に渤海使は34回来日し、日本からの遣渤海使も13回派遣されるなど、非常に緊密な外交関係が維持された。
経済・文化交流の進展と滅亡
時代が下り、東アジアの国際情勢が安定してくると、日渤関係は軍事的な同盟関係から、経済的・文化的な交流の側面を強くしていった。渤海からは虎やヒグマなどの貴重な毛皮、人参(薬材)や蜂蜜などがもたらされ、日本からは絹や綿、水銀などが贈答された。渤海使の接待や滞在費は日本側にとって重い財政負担となったため、平安時代に入ると来日の回数制限(12年に1度など)が設けられたが、民間交易に近い形での交流は続いた。また、渤海使の中には漢文学に秀でた者も多く、菅原道真をはじめとする日本の文人官僚たちとの間で、漢詩文を通じた文化交流も盛んに行われた。
しかし、10世紀に入ると渤海内部で貴族間の権力闘争が激化し、国力が急速に衰退した。その間隙を縫うように台頭してきたモンゴル系の契丹(のちの遼)によって激しい攻撃を受け、926年に渤海は滅亡した。一部の遺民は日本へ亡命を求めて渡来したものの、国家間の正式な外交関係はこの時点で終焉を迎えることとなった。