鴻臚館 (こうろかん)
【概説】
古代日本において、外国からの使節(遣唐使や新羅使、渤海使など)や商人を接待・宿泊させるために設けられた官営の迎賓施設。平安京(京都)、大宰府(筑前国)、難波(摂津国)の3か所に設置され、東アジア諸国との外交や交易の窓口として重要な役割を果たした。
鴻臚館の起源と3つの設置場所
鴻臚館の名称は、中国の唐王朝における外交機関である「鴻臚寺(こうろじ)」に由来する。日本においては、天武朝から持統朝にかけての7世紀末頃に、それまでの「筑紫館(つくしのむろつみ)」や「難波館」といった伝統的な迎賓施設が、律令国家の形成に伴って唐風の「鴻臚館」へと改称・整備されたと考えられている。設置されたのは平安京、大宰府、難波の3か所である。このうち難波の鴻臚館は、平安遷都ののち比較的早い段階で機能が失われたが、平安京と大宰府の鴻臚館は、異なる歴史的展開を見せながら長きにわたり機能した。
平安京の鴻臚館と大宰府の鴻臚館の役割
平安京の鴻臚館は、羅城門の左右(朱雀大路の東西)に東鴻臚館と西鴻臚館の2棟が配置され、主に日本に朝貢してきた渤海使(ぼっかいし)を迎えるために使用された。ここでは国賓としての儀式や饗宴が行われたが、10世紀前半に渤海が滅亡するとその存在意義は失われ、次第に衰退していった。一方、大宰府の鴻臚館(現在の福岡市中央区・舞鶴公園内)は、唐や新羅、さらにはのちの宋からの使節や商人が日本に到着した際に、最初に入港する最前線の外交・貿易拠点であった。ここでは、使節の身元確認や防疫措置(検疫)が行われ、許可が下りるまでの待機・宿泊施設として機能した。
「鴻臚館貿易」への転換と国風文化への影響
9世紀後半から10世紀にかけて、日本が遣唐使を廃止(894年)するなど公式な通交を控えるようになると、大宰府の鴻臚館は「外交の場」から民間商人による「貿易の場」へとその性格を大きく変化させた。宋や高麗の商人がもたらした陶磁器(越州窯青磁など)や香料、書籍などの高級品は、まず朝廷が優先的に買い上げ(御物買上げ)、その後に貴族や寺社へと販売された。この交易は「鴻臚館貿易」と呼ばれ、平安貴族たちが憧れた「唐物(からもの)」の供給源となり、当時の華やかな国風文化を支える経済的・文化的基盤となった。しかし、11世紀に入ると大宰府の統制力が低下し、商人が博多の街で直接取引を行うようになったため、鴻臚館はその役目を終え、歴史の表舞台から姿を消した。