木簡 (もっかん)
【概説】
紙が貴重であった古代において、文字を書き込むために用いられた細長い木の札。主に飛鳥時代から奈良時代にかけて大量に使用され、当時の政治・経済・社会の実態を伝える極めて重要な一次史料である。
木簡の種類と用途
古代社会において、紙は中国から製法が伝わっていたものの、依然として非常に高価で貴重なものであった。そのため、日常的な業務やちょっとした連絡、記録の際には、手に入りやすい木材を細長く削った木簡が広く用いられた。木簡は用途によって大きくいくつかに分類される。代表的なものとして、地方から都へ送られる調・庸などの税や特産品に結びつけられた付札(つけふだ)木簡(荷札)、役所間での連絡や命令伝達に用いられた文書(もんじょ)木簡、役人が文字の練習をした習書(しゅうしょ)木簡などが挙げられる。
木簡の大きな特徴は、小刀で表面を薄く削り取ることで何度も再利用できた点にある。そのため、遺跡からは文字が書かれた木簡本体だけでなく、文字が削り落とされた大量の「削り屑(くず)」も出土しており、当時の役所における徹底したリサイクルの実態を物語っている。
律令国家の形成と文書行政の発達
日本で木簡が爆発的に普及したのは、7世紀後半から8世紀にかけての飛鳥時代から奈良時代である。この時期は、大化の改新(645年)から天武・持統天皇の時代を経て、大宝律令(701年)が制定されるなど、日本が本格的な律令国家へと変貌を遂げていく過程であった。
中央集権的な国家を運営するためには、戸籍や計帳の作成、税の徴収、役人の勤務評価など、あらゆる行政手続きを明確なルールに基づき、文字を介して行う必要があった。これを文書行政と呼ぶ。全国各地から都の役所へと膨大な物資や情報が飛び交うようになり、それに伴って木簡も大量に消費されたのである。木簡はまさに、古代日本の国家形成を実務面から支えたインフラであったといえる。
歴史を書き換える「地下の正倉院」
木簡は地中で腐敗しやすいため、長らくその存在は知られていなかったが、1961年(昭和36年)に平城宮跡での発掘調査で初めて大量に発見されて以降、日本史研究に革命をもたらした。地下水が豊富な湿地帯やゴミ捨て場跡など、酸素が遮断された環境下で奇跡的に残存した木簡群は「地下の正倉院」とも称される。
特に有名な出土例として、1988年に平城京跡から出土した長屋王家木簡がある。数万点に及ぶこの木簡群からは、悲劇の宰相・長屋王の邸宅で消費されたアワビや氷などの豪華な食生活や、彼に仕える人々の生々しい日常が判明した。また、藤原京跡などから出土した木簡によって、大宝律令以前の地方行政区画が「郡(ぐん)」ではなく「評(こおり)」であったことが実証されるなど、『日本書紀』などの編纂史料(正史)だけでは窺い知れない歴史の真実を次々と明らかにしている。
このように木簡は、単なる木の札にとどまらず、筆跡や記された文字を通じて古代人の息遣いや社会の末端構造までをも現代に伝えてくれる、かけがえのない歴史遺産なのである。