南家 (なんけ)
【概説】
藤原不比等の長男である藤原武智麻呂を祖とする、藤原四家(南家・北家・式家・京家)の一つ。奈良時代中期に武智麻呂の子である藤原仲麻呂(恵美押勝)が政権を掌握して全盛期を築いたが、その没落後は政治的主流から外れ、藤原北家の台頭を許すこととなった。
藤原四家の成立と「南家」の由来
大化の改新の功臣である中臣鎌足の子・藤原不比等は、大宝律令の制定などに尽力し、藤原氏発展の基礎を築いた。不比等の没後、その4人の息子たちはそれぞれ独自の家系を興した。これが藤原四家である。長男の藤原武智麻呂が興した家系は、彼の邸宅が平城京の南側(外京の地)にあったことから「南家」と呼ばれるようになった。武智麻呂は四兄弟の長兄として、聖武天皇のもとで右大臣にまで上り詰め政権を主導したが、天平9年(737年)に平城京で大流行した天然痘によって四兄弟全員が相次いで病死した。これにより、南家をはじめとする藤原氏の執政は一時的に頓挫し、政権は皇族出身の橘諸兄へと移行することとなった。
藤原仲麻呂の独裁と南家の全盛期
橘諸兄の政権下で、南家再興のために台頭したのが武智麻呂の次男・藤原仲麻呂であった。仲麻呂は、叔母にあたる光明皇太后(不比等の娘)の強力な信任を背景に宮廷内での地位を急速に高めた。天平勝宝8歳(756年)に聖武太上天皇が崩御すると、翌年には対立勢力の一掃を諮り、橘諸兄の子である橘奈良麻呂らを排除(橘奈良麻呂の変)して独裁体制を確立した。仲麻呂は淳仁天皇を擁立し、自らは「恵美押勝」の名を賜って最高官職である太師(太政大臣)に就任した。この時期、仲麻呂は唐風の官制改革を断行し、南家は諸氏族を圧倒する最高権力を手中に収めた。
仲麻呂の没落と南家のその後
しかし、南家の栄華は長くは続かなかった。後ろ盾であった光明皇太后が没すると、孝謙上皇は僧侶の道鏡を寵愛するようになり、これに危機感を抱いた仲麻呂は天平宝字8年(764年)に軍事蜂起を試みた。これが藤原仲麻呂の乱(恵美押勝の乱)である。この反乱は上皇側の迅速な対応により失敗に終わり、仲麻呂は近江国で敗死した。首謀者を出した南家主流派は一挙に没落し、代わって藤原氏の主導権は房前の系統である藤原北家や、宇合の系統である藤原式家へと移り変わっていった。その後の南家は、桓武天皇の皇后となった藤原乙牟漏(平城天皇・嵯峨天皇の母)を出すなど宮廷での地位を一部保ち、平安時代には実務官僚や優れた学者(藤原保則など)を輩出したものの、政治の中枢に復帰することは二度となかった。