藤原広嗣 (ふじわらのひろつぐ)
【概説】
奈良時代中期、橘諸兄政権下で重用された吉備真備や玄昉の排除を求め、九州で反乱(藤原広嗣の乱)を起こした藤原式家の官人。藤原氏の勢力回復を企図して挙兵するも敗死し、その後の聖武天皇による度重なる遷都の契機を作った。
藤原氏の没落と橘諸兄政権の誕生
藤原広嗣は、藤原不比等の三男である藤原宇合(式家の祖)の長男として生まれた。当時、政界は不比等の息子たちである「藤原四兄弟」が主導権を握っていたが、737年(天平9年)に大流行した天然痘により、四兄弟が相次いで病死するという未曾有の事態が発生した。
これにより朝廷における藤原氏の勢力は大きく後退し、代わって皇族出身の橘諸兄が右大臣に就任して政権を握った。諸兄は、遣唐使として唐に渡り最新の学問や仏教を修めて帰国した吉備真備と僧の玄昉をブレインとして重用し、国政の立て直しを図った。この急激な政権交代と新興勢力の台頭は、旧来の特権階級であった藤原氏、特に血気盛んな若手官僚であった広嗣にとって強い不満の種となった。
大宰府への左遷と反乱の勃発
広嗣は朝廷内で親族を誹謗したことなどを咎められ、738年(天平10年)に大和守から大宰少弐(大宰府の次官)へと左遷される。これは事実上、中央政界からの追放であった。大宰府に赴任した広嗣は、九州の地方豪族や防人などを抱き込み、密かに不満勢力を結集していった。
そして740年(天平12年)、広嗣はついに行動を起こす。彼は聖武天皇に対し、「天地の災異(天災や疫病)が起こるのは吉備真備と玄昉の失政が原因である」として、両名の追放を求める上表文を送りつけ、九州で挙兵した。これが藤原広嗣の乱である。広嗣の目的は天皇への直接的な反逆ではなく、あくまで「君側の奸(君主のそばにいる悪臣)」を取り除くことで、藤原氏の権力を復興させることにあった。
反乱の鎮圧と聖武天皇への影響
広嗣の挙兵に対し、聖武天皇は強い危機感を抱き、即座に大野東人を大将軍とする一万五千の討伐軍を九州に派遣した。広嗣は弟の綱手とともに隼人などを率いて抗戦したが、板櫃川(現在の福岡県北九州市)の激戦などで敗北を喫した。その後、値嘉島(現在の五島列島)へと逃亡を図ったものの捕縛され、松浦郡で処刑された。これにより反乱は約二ヶ月で鎮圧された。
反乱自体は短期間で失敗に終わったが、この事件がもたらした精神的ショックは、聖武天皇のその後の治世に多大な影響を与えた。天皇は乱の平定を待たずして突如として平城京を離れ、関東方面への行幸に出発した。その後、恭仁京、難波京、紫香楽宮と次々に遷都を繰り返す「彷徨の五年」と呼ばれる不可解な行動をとることになる。さらに、後年になって玄昉が筑紫に左遷されて非業の死を遂げた際、人々はそれを「広嗣の怨霊の仕業」と噂したと伝えられており、広嗣の存在は長く人々に畏怖され続けた。