藤原広嗣の乱 (ふじわらのひろつぐのらん)
【概説】
740年(天平12年)、大宰少弐の藤原広嗣が、橘諸兄政権下で重用されていた吉備真備と玄昉の排除を求めて九州で起こした反乱。藤原氏の勢力挽回を図ったものの官軍に敗れて鎮圧されたが、聖武天皇に大きな動揺を与え、その後の度重なる遷都や鎮護国家政策を推し進める契機となった。
藤原四兄弟の死と橘諸兄政権の成立
奈良時代中期の737年(天平9年)、日本全国で天然痘が猛威を振るい、政権を担っていた藤原不比等の息子たち(武智麻呂・房前・宇合・麻呂の藤原四兄弟)が相次いで病死した。これにより、長屋王の変(729年)以降権力を握っていた藤原氏の勢力は急激に後退する。この政治的空白を埋める形で台頭したのが、皇族出身の橘諸兄(たちばなのもろえ)である。
右大臣として政権を掌握した諸兄は、遣唐使として唐で新しい知識や制度を学んで帰国した学者の吉備真備と、法相宗の僧である玄昉をブレーンとして重用し、政権の刷新を図った。しかし、この急速な人事権の移動と新興勢力の台頭は、旧来の権力層である藤原氏一族に強い危機感と不満を抱かせることとなった。
広嗣の左遷と挙兵の背景
藤原式家の祖である宇合の長男・藤原広嗣は、一族の没落と橘諸兄政権の政策に強く反発した。しかし、738年(天平10年)に親族を誹謗したなどの罪を問われ、朝廷の中央から遠ざけられる形で大宰少弐(大宰府の次官)に事実上の左遷をされてしまう。
九州に追いやられた広嗣は不満を募らせ、740年(天平12年)8月、天地の災厄は吉備真備と玄昉が政治を壟断していることが原因であるとし、両名の排除を求める上表文を聖武天皇に送りつけた。これは朝廷に対する事実上の宣戦布告であり、広嗣は大宰府の管轄下にある九州の兵力を動員して反乱の準備を進めた。
反乱の経過と鎮圧
広嗣の挙兵を知った朝廷は素早く対応した。聖武天皇は直ちに大野東人(おおののあずまひと)を大将軍に任命し、1万7千人以上の大規模な討伐軍を派遣した。広嗣軍は現在の福岡県北九州市付近にある板櫃川(いたびつがわ)で官軍を迎え撃ったが、兵力と統制に勝る官軍の前に敗走を余儀なくされた。
形勢不利を悟った広嗣は、船で値嘉島(現在の五島列島)方面へ逃れて新羅への亡命を図ったが、逆風に阻まれて捕らえられ、同年11月に唐津(佐賀県)で斬首された。こうして、反乱自体は約2ヶ月という短期間で鎮圧されることとなった。
聖武天皇の動揺と歴史的意義
広嗣の反乱は軍事的にはあっけなく終結したが、その歴史的意義は非常に大きい。国家の防衛や外交の最前線である大宰府を巻き込んだ大規模な内乱は、聖武天皇に深刻な精神的打撃と恐怖を与えたのである。
天皇は乱の鎮圧を待たずして、突如として平城京を脱出し、東国への行幸を開始した。その後、恭仁京(京都府)、難波京(大阪府)、紫香楽宮(滋賀県)と、約5年間にわたって都を転々と移動する異常事態を引き起こした。さらに、相次ぐ政治的混乱や疫病、反乱に直面した聖武天皇は、仏教の力によって国家の安泰を図る鎮護国家思想に深く傾倒していく。この乱を大きな契機として、741年の国分寺・国分尼寺建立の詔や、743年の大仏造立の詔が発せられることとなり、天平文化を象徴する国家的仏教政策が力強く推進されることとなったのである。