天平 (てんぴょう)
【概説】
奈良時代中期、聖武天皇の治世に使用された元号。遣唐使を通じてもたらされた盛唐の文化が花開き、仏教を中心に国際色豊かな貴族文化が栄えた時期を指す。転じて、この時代を中心に形成された文化を「天平文化」と称するなど、華やかな奈良時代の代名詞として用いられる言葉である。
改元と天平期の政治的背景
「天平」への改元は、神亀6年(729年)に起きた長屋王の変の直後に行われた。左大臣として政界の頂点にあった長屋王が藤原四子(武智麻呂・房前・宇合・麻呂)の策謀により自尽に追い込まれ、直後に藤原氏出身で初となる光明皇后が立后された時期にあたる。
天平年間は文化的に極めて華やかであった一方で、政治・社会的には激動と不安に満ちた時代であった。天平9年(737年)には天然痘が大流行して政権を担っていた藤原四兄弟が相次いで病死し、その後成立した橘諸兄政権に対して天平12年(740年)に藤原広嗣の乱が勃発するなど、権力闘争と社会不安が連鎖した。聖武天皇はこうした危機から逃れるかのように、恭仁京、難波京、紫香楽宮へと目まぐるしく遷都を繰り返した。
鎮護国家思想と仏教の隆盛
相次ぐ政変や疫病、飢饉、さらには大地震といった国家の危機に対し、聖武天皇は仏教の深い信仰によって国家の安泰を図る鎮護国家の思想に傾倒していった。仏法の力で災厄を鎮めるため、天平年間には日本仏教史に残る巨大な国家プロジェクトが次々と推進された。
天平13年(741年)には国分寺・国分尼寺建立の詔を発布し、全国に寺院と僧尼を配置して国家の平安を祈願させた。さらに天平15年(743年)には大仏造立の詔を発し、全土の金銅を集めて盧舎那仏(東大寺大仏)の造営に着手した。こうした事業には、民衆の支持を集めていた行基などの私度僧の力も動員され、仏教が国家の統治原理として深く根付くこととなった。
国際色豊かな「天平文化」の開花
天平期は、東アジアにおいて唐(玄宗皇帝の治世)が絶頂期を迎えていた時代と重なる。日本は遣唐使を幾度も派遣し、阿倍仲麻呂や吉備真備、玄昉らが大陸の先進的な制度や学問を学んだ。また、鑑真などの渡来僧も日本に戒律を伝えるなど、人と物の交流が活発に行われた。
これにより、唐の都・長安をモデルとした平城京では、シルクロードを経由して西アジアやインドのペルシア文化・ヘレニズム文化の影響を色濃く受けた、極めて国際色豊かな貴族文化が花開いた。これを天平文化と呼ぶ。聖武天皇の遺愛品などを収蔵する東大寺の正倉院宝物には、螺鈿紫檀五絃琵琶や白瑠璃碗など、シルクロードの終着点としての日本の姿を今日に伝える至宝が数多く残されている。
律令国家の爛熟と転換点
天平時代は、大宝律令(701年)によって成立した日本の律令国家が最も華やかに爛熟した時期である。日本書紀や万葉集が編纂され、国家としての歴史や文学のアイデンティティが確立された時期でもある。
しかし同時に、この時代は律令制の根幹であった「公地公民制」が崩壊へ向かう転換点でもあった。人口増加による口分田の不足を解消するため、天平15年(743年)に墾田永年私財法が制定され、開墾地の永久私有が認められた。これにより貴族や大寺社による初期荘園の形成が始まり、律令体制は大きな構造変化を余儀なくされることとなった。天平という時代は、古代日本の光と影が最も色濃く交錯した時代であったと言える。