南禅寺
【概説】
鎌倉時代後期に亀山法皇の離宮を改めて創建された臨済宗の寺院。室町幕府が定めた禅宗寺院の格付けである五山・十刹の制において、京都五山・鎌倉五山の上に立つ別格の「五山之上」に位置づけられた。室町時代における五山文化の中心地として、宗教のみならず政治・外交・文化に多大な影響を与えた。
創建の背景と最初の勅願寺
南禅寺の歴史は、鎌倉時代末期の正応4年(1291年)、亀山法皇が自身の離宮であった禅林寺殿を改めて寺院としたことに始まる。法皇は、東福寺を開いた円爾(えんに)の弟子にあたる無関普門(むかんふもん)を開山(初代住職)として迎え、禅寺を創建した。
鎌倉時代に日本に伝わった禅宗(臨済宗)は、当初は主に鎌倉幕府や武士階級からの支持を受けて発展していた。しかし、南禅寺の創建は、最高権力者であった天皇家からの厚い帰依を受けたことを意味し、日本の禅寺として最初の勅願寺(天皇の発願によって建てられた祈願寺)となった。これは、禅宗が武家のみならず公家や皇室にも広く受け入れられ、国家的な宗教権威として確立していく重要な転換点であった。
足利義満と「五山之上」の制定
室町時代に入ると、室町幕府は南宋の官寺制度に倣い、禅宗寺院の格付けと統制を図る五山・十刹の制(ござん・じっせつのせい)を推進した。この制度は足利尊氏や直義の時代から段階的に整備されていたが、3代将軍・足利義満の至徳3年(1386年)に決定的な改革が行われた。
義満は、京都五山(天龍寺、相国寺、建仁寺、東福寺、万寿寺)と鎌倉五山(建長寺、円覚寺、寿福寺、浄智寺、浄妙寺)を明確に定めた上で、南禅寺をこれらすべての五山のさらに上位に位置する「五山之上(ござんのじょう)」という別格の最高位に据えた。幕府が自ら創建した天龍寺や相国寺を五山の上位に置きつつも、天皇家が開基である南禅寺を最高峰に据えた背景には、朝廷の権威を巧みに取り込みながら、宗教界全体を幕府の統制下に置こうとする義満の高度な政治的意図が存在していた。
五山文化の興隆と外交への関与
「五山之上」として禅林の頂点に立った南禅寺は、単なる宗教施設にとどまらず、室町時代の高度な学術・文化の中心地となった。南禅寺をはじめとする五山の禅僧たちは、大陸(宋・元・明)から最新の文化や思想を日本にもたらす窓口としての役割を果たした。
彼らは漢詩文の創作(五山文学)や朱子学の研究を深めたほか、水墨画の制作や「五山版」と呼ばれる書物の出版など、後の東山文化にも繋がる五山文化の形成に多大な貢献をした。さらに、禅僧たちは極めて高い漢文の教養を持っていたため、幕府の外交顧問や外交文書の起草者として重用された。日明貿易(勘合貿易)の使節に任命される者も多く、南禅寺は優秀な学僧を次々と輩出し、室町幕府の政治・外交を実務面から強力に支えた。
応仁の乱の打撃と江戸時代の復興
絶大な権威を誇った南禅寺であったが、室町時代後期に勃発した応仁の乱(1467年〜1477年)の戦火に巻き込まれ、伽藍の大半を焼失するという甚大な被害を受けた。これにより、寺勢は一時的な衰退を余儀なくされた。
しかし江戸時代に入ると、徳川家康の側近として外交や宗教政策を担い「黒衣の宰相」と称された以心崇伝(いしんすうでん / 金地院崇伝)が南禅寺の第270世住職となり、寺の復興に尽力した。崇伝は南禅寺塔頭の金地院を拠点に江戸幕府の権力中枢で活躍し、その政治力を背景に伽藍の再建を進めた。これにより、南禅寺は再び日本仏教界において確固たる地位を取り戻すこととなった。