法相宗 (ほうそうしゅう)
【概説】
奈良時代に栄えた南都六宗の一つで、万物の存在はただ人間の認識(心)の現れにすぎないとする「唯識(ゆいしき)」の教理を究める学派。唐の玄奘に学んだ道昭や、のちに政界でも活躍した玄昉らによって段階的に日本へ伝えられ、興福寺や薬師寺を拠点に平城京の仏教界で最大の勢力を誇った。
中国からの伝来と「四伝」の系譜
法相宗は、インドの無著(むじゃく)・世親(せしん)に始まり、唐の玄奘(げんじょう)とその弟子・窺基(きき)によって大成された教学である。日本への伝来は、遣唐使に同行した僧侶たちによって4回にわたり段階的にもたらされ、これらは「四伝」と称される。
第1伝は653年に入唐した道昭(どうしょう)であり、彼は玄奘に直接師事して唯識を学び、帰国後は元興寺(飛鳥寺)を拠点に布教や井戸掘削などの社会事業を行った。その後、第2伝の智通(ちつう)・智達(ちたつ)、第3伝の智鳳(ちほう)らを経て、716年に入唐した玄昉(げんぼう)が第4伝として膨大な経典(一切経)を持ち帰り、日本における法相宗の教学を確立させた。このように、法相宗の受容は、当時の最新の唐文化・学問を国家規模で導入する動きと密接に連動していた。
「学派」としての性格と興福寺・薬師寺の興隆
奈良時代の仏教は、後世の鎌倉新仏教のような庶民救済を目的とした宗派とは異なり、国家の庇護のもとで仏教哲学を研究する「学派(学問寺)」としての性格が強かった(南都六宗)。その中で最も有力な学派が法相宗であった。
法相宗は、官寺である薬師寺や、藤原氏の氏寺である興福寺を大本山として栄えた。特に藤原氏の権勢伸張に伴い、その氏寺である興福寺が法相宗の最高学府として機能したことは、本宗派が奈良仏教界において絶対的な優位を占める要因となった。学僧たちは、自己の心のあり方を極限まで分析する極めて緻密な学問体系としての「唯識」を学び、国家の安泰を祈る「鎮護国家」の役割を担った。
政治との密接な関わりと玄昉の台頭
法相宗の僧侶たちは、その高度な学識と呪術的・医学的知識をもって、天皇や貴族の政治的顧問(ブレーン)として重用され、しばしば現実政治に強い影響力を持った。
その代表例が第4伝の伝承者である玄昉である。帰国した玄昉は、聖武天皇の母である藤原宮子の平癒に功があったとして、天皇の厚い信任を得て僧正に任じられた。玄昉は右大臣・橘諸兄(たちばなのもろえ)の政権下で吉備真備とともに国政に深く関与したが、こうした僧侶の政界進出と急激な出世は貴族層の反発を招き、740年に九州で起きた藤原広嗣の乱の直接的な原因となった。法相宗の展開は、単なる思想の受容にとどまらず、奈良時代の政争とも深く結びついていたのである。