山上憶良 (やまのうえのおくら)
【概説】
遣唐使として渡唐し、帰国後は農民の苦しみや家族への愛情などを思想的・写実的に詠んだ奈良時代の歌人。『万葉集』を代表する歌人の一人であり、社会の矛盾や人間の真情を赤裸々に表現したことで知られる。
遣唐使としての渡航と儒教・仏教思想の受容
山上憶良は下級官人の出身であったが、学識を見込まれて大宝元年(701年)の第七次遣唐使の少録(書記官)に抜擢され、翌年に唐へ渡った。長安で最新の唐文化や思想を吸収し、慶雲元年(704年)に帰国してからは、その深い教養が評価されて昇進を重ねる。のちに東宮(後の聖武天皇)の侍講(教育係)を務めるなど、儒教や仏教の深い知識を持つ知識人として宮廷内で独自の地位を築いた。
地方官としての経験と『貧窮問答歌』
神亀3年(726年)頃、憶良は筑前守として九州に赴任し、大宰帥であった大伴旅人らと親交を結んで「筑紫歌壇」を形成した。この地方官としての赴任は、彼の文学に決定的な影響を与えた。中央の貴族社会を離れ、重い税(租・庸・調)や兵役(防人)に苦しむ農民の過酷な生活を目の当たりにしたのである。
その経験から生まれた代表作が『貧窮問答歌』である。この長歌は、貧しい者とさらに貧しい者が対話する形式をとり、雨漏りする粗末な小屋で寒さに震え、里長から税を厳しく取り立てられる農民の悲惨な現実を描き出した。これは単なる文学作品にとどまらず、公地公民制の下で疲弊していく民衆の姿と、初期律令国家の構造的矛盾を後世に伝える極めて重要な歴史的資料となっている。
家族愛と普遍的苦悩の表現
当時の和歌は、天皇や国家の繁栄を讃える公的な歌や、男女の恋愛を詠む相聞歌、あるいは自然の美しさを詠むものが主流であった。しかし、憶良は「銀(しろがね)も金(くがね)も玉も何せむに勝れる宝子に及(し)かめやも」と詠んだ「子を思ふ歌」に代表されるように、親の我が子に対する無償の愛を正面から表現した。
また、病気や老い、死への恐怖といった、人間の普遍的な苦悩にも深く向き合った。彼の作品の根底には、儒教における強い家族倫理や、仏教における諸行無常の思想が色濃く反映されており、自らの人生観や思想を和歌という形で表現した点に大きな特徴がある。
『万葉集』における異色の存在
柿本人麻呂や山部赤人らが宮廷歌人として荘厳な調べや美しい自然を完成させていったのに対し、山上憶良は社会の底辺に生きる人々や、人間の泥臭い真情に光を当てた「社会派・思想派」の歌人であった。また、和歌の前に漢文の序文を付すなど、中国文学の手法を取り入れた独自の表現形式も開拓した。
憶良の写実的でヒューマニズムにあふれる歌風は、『万葉集』の中でも際立って特異であり、日本文学史において現実社会の矛盾を鋭く切り取った先駆的な存在として高く評価されている。