山部赤人 (やまべのあかひと)
生没年不詳
【概説】
奈良時代前期に活躍した宮廷歌人。聖武天皇の行幸に従駕して数々の優れた宮廷讃歌を残し、特に自然の美しさを清澄に描き出す叙景歌に優れた人物。
聖武朝における宮廷歌人としての足跡
山部赤人の生涯については、官位が低かったこともあり『続日本紀』などの正史に記載がなく、伝記的な詳細の多くは不詳である。しかし、『万葉集』に収録された作品群の年代から、聖武天皇の治世である神亀・天平年間(724年〜736年頃)に下級官人、および宮廷歌人として朝廷に仕えていたことが判明している。赤人は聖武天皇の吉野、難波、紀伊、同盟(あかしか)などへの行幸にたびたび従駕し、天皇の権威や統治する国土の美しさを賛美する「宮廷讃歌」を数多く詠み上げた。これらの歌は、天皇を中心とする律令国家の安定と文化的繁栄を視覚的に寿ぐ、きわめて政治的・儀礼的な役割を担っていた。
写実的な「叙景歌」の確立と「歌聖」としての後世の評価
赤人の最大の歴史的意義は、主観的な感情を前面に出さず、自然の風景をありのままに、極めて写実的かつ清澄に描き出す「叙景歌」のジャンルを確立した点にある。彼の代表作である「田子の浦ゆうち出てみれば真白にぞ富士の高嶺に雪は降りける」(『万葉集』巻三)に象徴されるように、その歌風は極めて絵画的で、視覚的な美しさを特徴とする。こうした独自の卓越した表現力は後世に高く評価され、平安時代の『古今和歌集』仮名序において、紀貫之によって柿本人麻呂と並ぶ存在として位置づけられた。以降、人麻呂と赤人の二人は「歌聖」(山柿と総称される)と仰がれ、日本の和歌史における双璧として、後世の文学や美意識に決定的な影響を与え続けることとなった。