秋田城
【概説】
奈良時代の733年(天平5年)に、出羽柵を北方に移転して築かれた日本海側の古代城柵。東北地方の北辺における蝦夷支配の軍事・行政拠点であると同時に、対岸の渤海からの使者を迎える外交の窓口としても機能した遺跡である。
出羽柵の北進と秋田城の創設
大化の改新以降、律令国家は支配領域を北方に拡大する「東北経営」を推し進めた。日本海側では、708年に越後国北部に出羽柵(いではのき)が設置され、712年には出羽国が建てられた。国家の拡大に伴い、さらに北方の蝦夷(えみし)を帰順・教化するため、733年に出羽柵が現在の秋田市高清水岡へと移転された。これが秋田城の始まりである(天平宝字年間までに「秋田城」と改称された)。
秋田城は、太平洋側の多賀城(宮城県)と並び、律令国家の北辺を画する最重要拠点として機能した。周囲を築地塀で囲まれた城内には、政務を執る政庁や官人の実務官衙、兵舎、さらには寺院(秋田城跡敷地内から寺院跡が検出されている)などが配され、名実ともに地方行政と軍事の中心地であった。
軍事・行政・外交の多角的な役割
秋田城の主な役割は、周辺の蝦夷に対する軍事的な威圧と、融和政策(饗給など)を通じた支配の確立であった。しかし、その役割は国内統治にとどまらなかった。当時、中国東北部に興った渤海(ぼっかい)からの使節(渤海使)が日本海を渡って出羽の海岸に漂着・来航することが多く、秋田城はその最初の受け入れ拠点となった。城内からは渤海使をもてなしたと推測される迎賓館のような施設や、彼らとの交渉を示す木簡が多数出土している。
近年の発掘調査では、水洗式のトイレ遺構や、日本最古級の豚の飼育跡が確認された。便の中からは大陸系寄生虫の卵も検出されており、秋田城が当時として極めて高度な衛生環境を持ち、かつ国際的な人的交流が盛んな「異文化接触の窓口」であったことが考古学的に実証されている。
元慶の乱と秋田城の衰退
平安時代に入ると、律令制の緩みや地方官の苛政に対し、帰順していた蝦夷(俘囚)の不満が爆発した。878年(元慶2年)、秋田城下を揺るがす大規模な反乱である元慶の乱(がんぎょうのらん)が勃発する。反乱軍は秋田城を襲撃・占領し、政府の武器や糧食を奪った。朝廷は急ぎ朝野鹿取や藤原保則、坂上茂樹らを派遣し、懐柔と武力鎮圧を織り交ぜてようやく反乱を収束させた。
この元慶の乱を契機として、秋田城の軍事・行政的地位は大きく低下した。その後も10世紀中葉まで城としての機能は維持されたものの、次第に出羽国の国府機能は南方の城輪柵(山形県酒田市)などへと移り、秋田城は歴史の表舞台から姿を消すこととなった。