直訴(田中正造) (じきそ)
【概説】
1901年、足尾銅山鉱毒事件の解決を訴えるため、元衆議院議員の田中正造が明治天皇に直接訴状を差し出そうとした事件。衆議院議員を辞職し、死を覚悟して臨んだこの行動は、公害問題に対する世論の関心を劇的に高める契機となった。
議会闘争の限界と直訴への決断
足尾銅山(栃木県)から流出する鉱毒は、渡良瀬川流域の農漁業に壊滅的な被害を与え、住民の健康を著しく脅かしていた。栃木県選出の衆議院議員であった田中正造は、1890年の第1回帝国議会以来、この問題を一貫して追及し、政府に対策を求め続けた。しかし、日清戦争後の産業興隆を最優先する明治政府は、政商の古河市兵衛が経営する足尾銅山を庇護し、抜本的な対策を講じようとしなかった。1900年には、抗議のために上京しようとした農民と警官隊が衝突する川俣事件が発生し、多数の農民が不当に逮捕・起訴される事態となった。議会内での質問や法秩序に則った運動に限界を感じた田中は、1901年10月に議員を辞職。法的な立場を捨て、命を賭した直接行動へと踏み切ることを決意した。
直訴の決行と「直訴状」の背景
1901年12月10日、東京・日比谷において、田中正造は帝国議会開院式から還幸する明治天皇の馬車に対して突進し、鉱毒被害の実態と救済を訴える書状(直訴状)を直接手渡そうとした。田中はその場で警備の警官に取り押さえられ、直訴自体は未遂に終わった。この時に田中が持参した直訴状は、当時新聞記者として活動していた治安社会主義者の幸徳秋水が起草したものであり、格調高い漢文調で天皇に人民の窮状を訴えかける内容であった。直訴は当時の法秩序において大罪に問われる可能性があったが、政府は田中を処罰して事件がさらに注目されることを恐れ、彼を司法省の判断により「狂人」扱いとして即日釈放する措置をとった。
世論の沸騰と公害運動の原点
直訴そのものは未遂に終わったものの、元国会議員による命がけの行動は新聞各紙によって大々的に報じられ、社会に極めて大きな衝撃を与えた。これにより、それまで渡良瀬川流域の局地的な問題とみなされていた足尾銅山鉱毒問題が、一躍全国的な関心事へと浮上した。東京の大学生やキリスト教徒、知識人、女性団体などが次々と支援に立ち上がり、現地視察や義捐金活動が活発化するなど、日本初の大規模な人道・環境保護運動へと発展した。政府は世論の反発に押され、第二次鉱毒調査委員会の設置を余儀なくされるなど、この事件は日本の公害反対運動の原点として歴史に深く刻まれることとなった。