田中正造
【概説】
栃木県選出の衆議院議員であり、日本初の公害問題とされる足尾鉱毒事件の解決に生涯を捧げた政治家。被害民を救済するために帝国議会で政府の対応を激しく追及し、のちに明治天皇への直訴を試みた。日本の近代化・富国強兵政策の陰で切り捨てられた民衆に寄り添い、国家権力と資本の癒着に立ち向かった先駆者として知られる。
自由民権運動から国政へ
田中正造は、下野国安蘇郡小中村(現在の栃木県佐野市)の名主の長男として生まれた。若くして村政に携わる中で政治意識を高め、明治時代に入ると自由民権運動に深く傾倒していった。栃木県会議員や同議長を歴任し、当時の県令であった三島通庸の専制的な土木行政に対して激しく対立したことでも知られている。
1890(明治23)年、第1回衆議院議員総選挙に立候補して初当選し、以後6回連続で当選を果たした。初期の帝国議会においては立憲改進党や憲政本党などに属し、一貫して反政府・民権派の立場から熱弁を振るう有力な政治家であった。
足尾鉱毒事件と国会での追及
明治政府の「富国強兵」「殖産興業」政策のもと、古河市兵衛が経営する足尾銅山は急速な発展を遂げ、産出される銅は当時の日本にとって極めて重要な輸出品・外貨獲得源となっていた。しかしその一方で、製錬所から排出される亜硫酸ガスや、渡良瀬川に流出する鉱毒(銅や亜鉛などの有害物質)により、周辺の山林は荒廃し、下流域の農地や漁業には甚大な被害がもたらされていた。
自身の選挙区である渡良瀬川流域の窮状を重く見た田中正造は、1891(明治24)年、第2回帝国議会において初めて鉱毒事件に関する質問主意書を提出した。彼は「鉱業条例」違反を根拠に足尾銅山の操業停止を求めたが、政府は「原因不明」としてこれを黙殺した。その後も田中は、農作物の枯死や住民の深刻な健康被害を訴え続け、「亡国に至るを知らざれば之れ即ち亡国の儀につき質問書」など、激しい言葉を用いて政府の不作為と資本家偏重の姿勢を追及し続けた。
議員辞職と明治天皇への直訴
田中の国会での追及や、被害農民による大挙上京請願運動により、政府も鉱毒調査委員会を設置するなどの対応を余儀なくされた。しかし、古河鉱業への予防工事命令などに留まり、問題の根本原因である操業停止には踏み込まなかった。1900(明治33)年には、請願のために上京しようとした農民と警察隊が衝突する川俣事件が発生し、多数の農民が凶徒聚衆罪などで逮捕される事態となった。
農民弾圧を目の当たりにし、もはや議会内での闘いに限界を感じた田中は、1901(明治34)年10月に衆議院議員を辞職した。そして同年12月10日、帝国議会開院式からの帰途にあった明治天皇の馬車に対し、直接訴状を渡そうとする直訴を決行した。幸徳秋水らが起草したとされるこの直訴状が天皇の手に直接渡ることはなかったが、田中の決死の行動は当時の新聞で大々的に報じられ、足尾鉱毒事件を全国的な社会問題として広く認知させる決定的な契機となった。
谷中村強制廃村への抵抗と晩年
直訴事件の後、政府は鉱毒問題の「解決策」として、渡良瀬川下流に遊水池を建設する計画を立案した。これは、度重なる洪水の防止を名目としながらも、実際には鉱毒を沈殿させ、抗議運動の最大の拠点であった谷中村(現在の栃木県栃木市藤岡町)を地図上から消滅させるという国家的な強硬策であった。
1906(明治39)年、政府は谷中村の強制廃村を決定したが、田中正造は自ら谷中村に移り住み、残留を希望する村民とともに土地収用への反対運動を主導した。しかし、政府権力による家屋の強制破壊(強制執行)などが行われ、村は最終的に遊水池(現在の渡良瀬遊水地)の底に沈むこととなった。
田中はその後も治水問題の抜本的解決や農民の権利擁護のために奔走し続けたが、1913(大正2)年、遊説先の支援者宅で客死した。生涯を通じて民衆の救済に身を捧げた田中の遺品は、合切袋に入った新約聖書や帝国憲法、マタイ伝、日記、そして河原で拾った小石3個などだけであった。その徹底した清貧な生き様と不屈の闘志は、日本の公害反対運動や環境保護運動の原点として今日でも高く評価されている。