飛鳥時代
【概説】
6世紀末の推古天皇即位頃から、710年の平城京遷都までの、飛鳥地方(奈良盆地南部)を中心に政治や文化が展開した時代。大和王権による有力氏族の連合的な国家体制から、法制に基づく天皇中心の古代律令国家へと根本的な転換を遂げた、日本史上の重要な画期である。
飛鳥時代の時期区分と地理的背景
飛鳥時代の始期については、538年(または552年)の仏教公伝とする説や、大化の改新(645年)以降とする見方など複数の見解が存在するが、政治史・文化史の観点から、592年の推古天皇即位から710年の平城京遷都までの約1世紀強とするのが一般的である。この間、歴代の天皇(大王)は主に奈良盆地南部の飛鳥地方に宮を営んだ。天皇の代替わりごとに宮を移動する「歴代遷宮」の慣習は維持されていたものの、特定の地域に宮室や有力氏族の邸宅、氏寺が集中して営まれるようになり、日本における初期の都市的空間が形成されていった。
激動の東アジア情勢と危機感
飛鳥時代の日本を理解する上で不可欠なのが、当時の東アジアにおける国際情勢の激変である。6世紀末、中国大陸では隋が南北朝の混乱を収拾して統一帝国を樹立し、続いて7世紀前半には唐が成立して強大な版図を築き上げた。また朝鮮半島では、高句麗・百済・新羅の三国が中国王朝を巻き込みながら激しく対立していた。こうした東アジアの軍事的・政治的緊張は、海を隔てた倭国(日本)にも強烈な危機感をもたらした。大和政権は、強大な隣国に対抗しうる強力な中央集権国家を急遽構築する必要に迫られ、これが飛鳥時代を通じて推進された数々の政治改革の最大の原動力となったのである。
律令国家への歩みと天皇権力の確立
飛鳥時代の政治史は、国家体制の整備とそれに伴う権力闘争の連続であった。初期には推古天皇のもと、聖徳太子(厩戸王)や蘇我馬子が冠位十二階や十七条憲法を制定し、遣隋使を派遣して官僚制の導入を図った。その後、蘇我氏の本宗家が専横を極めると、中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣鎌足らが645年に乙巳の変を起こし、公地公民制を理念とする大化の改新に着手した。
7世紀後半、朝鮮半島での白村江の戦い(663年)における大敗は、国家防衛体制の強化をさらに加速させた。天智天皇の死後に起きた古代最大の内乱である壬申の乱(672年)を制した天武天皇と、その後を継いだ持統天皇の時代に、天皇中心の専制的な権力基盤が確立された。飛鳥浄御原令や大宝律令(701年)の制定、全国的な戸籍(庚寅年籍など)の作成が進められ、さらには「日本」という国号や「天皇」という君主号の本格的な使用が始まったのもこの時期である。現代につながる日本の国家の骨格は、まさにこの飛鳥時代に形作られたと言える。
仏教の受容と華開く飛鳥・白鳳文化
文化面において、飛鳥時代は日本に初めて本格的な仏教文化が花開いた時代である。仏教は単なる信仰としてだけでなく、大陸の先進的な建築・彫刻・工芸技術や、漢字を通じた思想・制度を伴う「総合的な最新文化」として受容された。7世紀前半を中心とする飛鳥文化では、飛鳥寺や法隆寺などが建立され、北魏や百済の様式を色濃く残す仏像(法隆寺金堂釈迦三尊像など)が造立された。
一方、7世紀後半の天武・持統朝を中心とする時代は美術史・文化史において白鳳文化と呼ばれ、初唐文化の影響を受けた若々しく大らかな造形が特徴である。薬師寺東塔や同寺金堂の薬師三尊像などに、その卓越した技術を見ることができる。また、国家祭祀の整備が進むとともに、漢字の音訓を用いて日本語を表記する試みがなされ、『万葉集』の初期の歌人である額田王や柿本人麻呂らが活躍し、日本文学の黎明期を飾った。