遣唐使

重要度
★★★

遣唐使

630年〜894年

【概説】
唐の進んだ政治制度(律令制)や文化を学ぶため、日本から繰り返し派遣された公式の外交使節。7世紀前半から9世紀末に至るまで、日本の古代国家形成と文化発展に極めて重要な役割を果たした。

遣唐使派遣の背景と国家改造の急務

7世紀前半、東アジアでは隋に代わって強大な帝国が成立し、周辺諸国に大きな影響を及ぼし始めていた。飛鳥時代の630年(舒明天皇2年)、第1回の遣唐使として犬上御田鍬(いぬかみのみたすき)らが派遣されたのがその始まりである。初期の遣唐使は唐の動向を探る意味合いが強かったが、663年の白村江の戦いで日本・百済遺民の連合軍が唐・新羅の連合軍に大敗を喫すると、事態は急変する。唐との国交修復が急務となっただけでなく、迫り来る唐の脅威に対抗するため、日本を強力な中央集権国家へと改造する必要に迫られたのである。こうして遣唐使の主目的は、唐の高度な律令制や政治・法体系、さらに仏教などの先進文化を積極的に吸収することへと移行していった。

航路の変遷と命がけの渡海

遣唐使の派遣規模は時代とともに拡大し、奈良時代には「四つの船」と呼ばれる4隻編成で、およそ500人もの大規模な使節団が組まれるようになった。しかし、その渡海は常に死と隣り合わせの過酷なものであった。初期は朝鮮半島沿岸を北上して遼東半島を経由する比較的安全な「北路」が用いられていたが、白村江の戦い以降、新羅との関係が悪化したことでこのルートは使えなくなった。そのため、東シナ海を直接横断する「南島路」や「南路」への変更を余儀なくされた。当時の未熟な造船・航海技術で東シナ海の荒波を越えるのは至難の業であり、多くの船が難破し、海の藻屑となった留学生や水夫は数知れない。

日唐交流を彩った人物と歴史的遺産

多大な犠牲を払いながらも、遣唐使が日本にもたらした成果は計り知れない。8世紀に唐へ渡った留学生の吉備真備や学問僧の玄昉は、帰国後に聖武天皇に重用され、日本の律令国家体制の確立や天平文化の発展に大きく貢献した。また、阿倍仲麻呂のように唐の科挙に合格して玄宗皇帝に仕え、李白や王維ら文人と親交を結ぶも、ついに日本への帰国を果たせなかった悲劇の人物もいる。逆に、日本からの熱心な要請に応え、幾度もの遭難と失明を乗り越えて来日した唐の僧・鑑真は、日本に正式な仏教の戒律を伝え、唐風文化の真髄をもたらした。彼らが命がけで持ち帰った膨大な経典や文物は、正倉院宝物などに収められ、今も色褪せることなく現代にその輝きを伝えている。

遣唐使の終焉と新たな文化の息吹

平安時代に入ると、唐は安史の乱(755年〜)などを経て徐々に衰退の一途をたどるようになった。9世紀後半には唐国内で黄巣の乱が勃発し、治安は極度に悪化していた。こうした国際情勢の中、894年(寛平6年)に遣唐大使に任命されていた菅原道真は、唐の衰退と渡海の危険性を理由に、宇多天皇に遣唐使の停止(事実上の白紙撤回)を建白した。これが受け入れられたことで、260年余りにわたる遣唐使の歴史は幕を閉じた。この決断は、単なる外交関係の断絶にとどまらず、それまで吸収し続けてきた大陸文化を日本独自の風土や感性に適合させて昇華させる国風文化が花開く、日本史におけるひとつの大きな転換点となったのである。

遣唐使 (岩波新書 新赤版 1104)

古代の国家プロジェクトの全容を解明し、日中交流の歴史的変遷と東アジア社会のダイナミズムを追体験できる至高の概説書。

日本の遣唐使 (アジア遊学)

古代日本が国家存亡をかけて挑んだ過酷な航海と、多大なる犠牲を払い持ち帰った先進文化の真価を浮き彫りにした必読の書。

日本史一問一答(ランダム)

Q. 氏(うじ)と呼ばれる豪族の集団において、一族を統率し、氏神の祭祀を主宰した首長を何というか?
Q. 冠位十二階の基準となった儒教の徳目で、「大・小」に分かれて第2位(上から3・4番目)に位置づけられたものは何か?
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