一木造
【概説】
仏像の頭部から胴体などの主要な部分を、一本の木材から彫り出す木彫の技法。
飛鳥時代にその源流が見られ、奈良時代の木心乾漆造の流行を経て、平安時代前期(弘仁・貞観文化)に最盛期を迎えた日本仏教美術を代表する彫刻表現である。
飛鳥・奈良時代における木彫の源流
日本における仏像制作は、6世紀の仏教伝来以降、金属製の金銅仏や、粘土を用いた塑像、漆を用いた乾漆造など、大陸から伝わった多様な技法によって展開した。その中で、日本に豊富に存在した木材を利用する木彫も初期から行われていた。飛鳥時代の代表作である法隆寺の百済観音像は、クスノキの一木造に近い技法で造られており、これが日本における一木造の先駆的な例とされる。
奈良時代(天平文化)に入ると、国分寺の造営などに伴い、複雑で写実的な表現が可能な脱活乾漆造や塑像が主流となった。しかし、これらは莫大なコストと高度な技術を要するため、地方や私寺などではより簡便な木彫が命脈を保ち続けた。奈良時代後半には、木を芯としてその上に漆を盛り上げる木心乾漆造(もくしんかんしつづくり)が登場し、これがのちの完全な木彫技法(一木造)へと移行する過渡期を形成することとなった。
平安初期における一木造の全盛と密教の隆盛
一木造が日本の仏像制作の主役に躍り出たのは、9世紀の平安時代前期(弘仁・貞観文化)である。この時期、最澄や空海によってもたらされた密教(天台宗・真言宗)が急速に広まり、仏教の中心地は奈良の都平坦地から、比叡山や高野山などの深い山林へと移った。山岳修行を重んじる密教においては、山林で入手しやすい木材を素材とし、一本の巨木から仏を彫り出す行為そのものが神聖視されたため、一木造の仏像が数多く制作された。
この時代の木彫仏は、クスノキに代わってヒノキやカヤ、サクラなどが用いられ、木が持つ特有の質感や重量感をそのまま活かした。表現の特徴としては、どっしりとした重厚な体躯、神秘的で時に威圧感を与える厳しい表情(忿怒相など)、そして衣の皺を波が交互に寄せるように表現する翻波式衣文(ほんぱしきえもん)が挙げられる。代表的な作品として、神護寺薬師如来立像や元興寺薬師如来立像、室生寺弥勒堂釈迦如来坐像などがある。
「内刳」の考案と寄木造への発展
一木造の最大の弱点は、乾燥による木材の収縮から生じる「ひび割れ(狂い)」であった。特に巨木を用いた大型の像ほど、内部と外部の乾燥速度の差によって亀裂が入りやすかった。これを防ぐために考案されたのが、像の背面や底面から内部をくり抜いて空洞にする内刳(うちぐり)という技法である。内刳を施すことで、乾燥による変形を防ぐと同時に、像全体の軽量化にも成功した。
しかし、一木造は一本の木材の太さによって像の大きさが制約されるため、巨大な仏像を造るのには限界があった。また、一人の仏師が最初から最後まで彫り上げる必要があったため、大量生産にも向いていなかった。この限界を克服するため、平安時代後期になると、複数の木材を細かく組み合わせて一体の仏像を造る寄木造(よせぎづくり)が定朝らによって完成され、一木造は仏像制作の主流の座を譲ることとなった。しかし、一本の木から仏の姿を呼び起こすという一木造の精神性と力強い造形美は、のちの鎌倉彫刻(運慶・快慶ら)の写実精神の中にも深く息づいていくこととなる。